かすがじんじゃ
春日神社の編集履歴
ご由緒
当社は平安朝初期の大同2年(807)、現在の奈良市川上町に鎮座する蛭子神社の介添により、南都春日社の四所大神を勧請して氏神としたといわれる。この蛭子神社は弁財天を祀る。その介添というのは具体的なことはわからないが、蛭子社と当社とは無視できない深い関係があったようである。
勧請した日が旧暦の11月23日といわれるところから、この日は二股大根を供えて蛭子の神を祀るとともに、神社の東を通る奈良街道に面した垣根を結び替える習慣が近年まで行われていた。恐らく垣根の手入れとともに、その前の街道の掃除も行われたものと考えられるが、この街道は古くから京都と奈良を結ぶ主要交通路で、奈良の春日社へ詣でる行幸啓や春日詣、昔は春、冬二季の春日祭に参向する勅使らの一行、あるいは神木をかついで入洛する僧兵たちが往還した道であろう。
当社の本殿は春日大社の旧殿(一説に若宮本殿という)を拝領して移築したものと伝えるが、春日大社の本殿は春日造りで、当社のような入母屋造りではない。しかし室町初期のこの種入母屋造り社殿は京都府下でも類例がなく、甚だ貴重な存在として国の重要文化財に指定されている。
また、社前の横に立てられている石灯籠は春日大社の御間形(おあいがた)灯籠と同形で、しかも南北朝時代の古式を存し旧重要美術品に指定されている。これらのことから当社は鎌倉時代から室町時代にかけての頃、ひじょうに栄えたことがうかがわれる。
当社に対する村人たちの信仰の中で注目されるのは豊作を祈り、毎年の作柄を占うために行われる1月10日の弓始式である。この日が始めということは、年内に数回行われたことも想像され、今も行われる春日若宮おん祭の流鏑馬神事と一脈通じるものが感じられる。
戦後、新憲法によって全国の国有地たる神社境内地が無償で神社に譲渡される際、これを誤認した当社は以後、この問題解決に36年の歳月を要したのであるが、これには責任役員吉川章一氏らの功績が極めて大きい。
アクセス
近鉄狛田駅またはJR下狛駅下車、徒歩約5分