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金剛寺ではいただけません
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金剛寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年06月11日(火)
参拝:2024年6月吉日
小鮎川の右岸、白山の山裾に位置している金剛寺は、華厳山遍照院と号します。
大同年間(806〜810)空海開基と伝える当寺の名は、1182年に当寺の住僧が古荘郷司・近藤能成の乱妨を源頼朝に訴えた記録に初見します。
平安時代には金澤称名寺、鎌倉覚園寺、京都泉涌寺と深い関わりを持ち、中世には律宗寺院の中核となりました。
天文年間に、清原院(現・厚木市三田)四世忠州が曹洞宗寺院に改宗、中興しました。
境内には金剛寺大師堂があり、空海の道場であったといわれています。
その大師堂脇には、安達藤九郎盛長(源頼朝の近臣)の墓と伝える中世の石造群があり、また、山門近くには江戸後期の僧で俳人の「つぶね」の墓碑が佇んでいます。
重要文化財の阿弥陀如来座像や地蔵菩薩座像、金剛寺に伝世した鎌倉期の銅製品を所有していて、小鮎川に架かる朱塗りの「庫裡橋」は、金剛寺の庫裡に向かって架けられたといわれています。
大同年間(806〜810)空海開基と伝える当寺の名は、1182年に当寺の住僧が古荘郷司・近藤能成の乱妨を源頼朝に訴えた記録に初見します。
平安時代には金澤称名寺、鎌倉覚園寺、京都泉涌寺と深い関わりを持ち、中世には律宗寺院の中核となりました。
天文年間に、清原院(現・厚木市三田)四世忠州が曹洞宗寺院に改宗、中興しました。
境内には金剛寺大師堂があり、空海の道場であったといわれています。
その大師堂脇には、安達藤九郎盛長(源頼朝の近臣)の墓と伝える中世の石造群があり、また、山門近くには江戸後期の僧で俳人の「つぶね」の墓碑が佇んでいます。
重要文化財の阿弥陀如来座像や地蔵菩薩座像、金剛寺に伝世した鎌倉期の銅製品を所有していて、小鮎川に架かる朱塗りの「庫裡橋」は、金剛寺の庫裡に向かって架けられたといわれています。
山門
本堂
収蔵庫だと思われます。
ここからロウバイの丘、桜の広場へ続いています。
「金剛寺大師堂」
寺伝によると、弘法大師が34歳の時の自作の尊像が安置されているといいます。
寺伝によると、弘法大師が34歳の時の自作の尊像が安置されているといいます。
だいぶ荒れて傷んでいましたが、それでも彫刻など見応えがありました。
ただ…雰囲気がとても異様で、お地蔵様のすぐ近くやお堂の扉の前まで近づくことが出来ませんでした。お堂の中も見ようと思えば見れたのですが…なんか怖かった💦
ただ…雰囲気がとても異様で、お地蔵様のすぐ近くやお堂の扉の前まで近づくことが出来ませんでした。お堂の中も見ようと思えば見れたのですが…なんか怖かった💦
大師堂のまわりには、百体地蔵が奉納されています。
お地蔵様、壁にもたれていてそのまま後ろに倒れないか心配です。
どうやら大師堂の右奥の草むらの中に、安達盛長の墓があったようです。つぶねの墓碑も見落としました。
このお地蔵さまだけ年代が新しく離れた場所にありました。
台座をよく見たら「鈴木義三、平成4年肝ためしの為地蔵様を倒し、平成7年には脳腫瘍を病む。お詫びの為に建立する」とありました。
台座をよく見たら「鈴木義三、平成4年肝ためしの為地蔵様を倒し、平成7年には脳腫瘍を病む。お詫びの為に建立する」とありました。
飯山白山入口の朱塗りの庫裡橋
すてき
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ひなぎく487投稿
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