妙蓮寺の日常(5回目)|神奈川県希望ケ丘駅
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
投稿日:2022年02月22日(火)
合掌
皆さま、こんにちは。
今回の投稿では、現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場し、その13人に数えられる和田小太郎義盛公と妙蓮寺のご縁についてお話しさせていただきます。
和田小太郎義盛公は、桓武天皇の孫(又は曾孫)で桓武平氏の祖である平高望より数えて9代目の子孫にあたり、三浦大輔義明を祖父、その長男杉本(椙本)義宗を父にもちます。
義盛公は鎌倉幕府侍所の初代別当職を務めましたが、鎌倉幕府第二代執権北条義時との確執が生じます。その結果、建暦3(西暦1213)年5月2日、一族や部下を率いて大倉郷の将軍御所を襲撃し、和田合戦(又は和田義盛の乱)が起きました。
しかし、義盛公は討ち死にし、和田軍は敗北、追われる身となった一族は各所に散らばります。
その時まだ幼少であった義盛公の八男和田(又は杉本)八郎義國は近江国に逃れ、姓を「杉浦」(杉本氏の「杉」と三浦氏の「浦」)に変えて住むことになります。
義國は、後に徳川家直参旗本となる杉浦氏の祖となりますが、息子の一人である杉浦義久は、相模国愛甲郡角田へ移り住みます。
義久の生涯について詳しく分かりませんが、ある夜浅間明神(= 木花咲弥姫命:コノハナサクヤヒメ)の霊夢を見たことで、天文8(1539)年4月に武蔵国都筑郡の善部へ移り、「和田」の姓を名乗り始め、この地の名主となっていきます。
時代は流れ、義久の子孫である和田四郎左衛門は、寛永5(1628)年2月11日に地頭の宅間伊織忠次公の命を受けて、當山開山の日暁上人に自身の土地を寄進します。
これが當山の縁起となり、妙蓮寺の礎となりました。
そして現在、妙蓮寺の境内に和田義盛公を祀る祠がありますが、この祠は元々和田氏本家に構えられていました。
このことから、この地で再興した和田氏は、滅びかけた和田氏初祖の義盛公を厚く信仰していたことが伺えます。
また、その祠の隣には、和田氏一族が発起人となって大正15(1926)年に建立された和田義盛公の供養塔があり、側面に和田氏の略歴が彫り残されています。
この様に、和田氏は妙蓮寺の開山以来の深い関わりを一族であります。
1枚目の写真は、義盛公の供養塔です。
2枚目の写真は、義盛公を祀る祠です。
最後に、彫られた和田氏の略歴を若干校訂してご紹介します。
内容には史実と異なる点が見受けられますが、それでもなお、和田氏一族で代々語り継がれてきた和田氏の歴史があるという事実を伝えております。
「人皇五十代桓武天皇より平高望王九代の孫三浦大輔義明の息義宗は、和田の祖先にして頼朝郷に寵せられ侍所の別当職に任し、嗣子小太郎義盛も次で侍所の別当職に任ぜられたりしが、建暦二年(史実は同三年)五月北條氏の為鎌倉に戦死す。時に六十七歳、今を去る七百十五年。八男義國は、父兄戦死の時に末だ幼若なる故を以て、伊賀國へ引籠り、其息義久は相州愛甲郡角田の郷に住す。或夜、浅間明神の霊夢に依り、天文八年四月善部谷戸へ住す。凡三百八十八年なり。實に義久氏は當所一門之初祖とす。」
再拝
皆さま、こんにちは。
今回の投稿では、現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場し、その13人に数えられる和田小太郎義盛公と妙蓮寺のご縁についてお話しさせていただきます。
和田小太郎義盛公は、桓武天皇の孫(又は曾孫)で桓武平氏の祖である平高望より数えて9代目の子孫にあたり、三浦大輔義明を祖父、その長男杉本(椙本)義宗を父にもちます。
義盛公は鎌倉幕府侍所の初代別当職を務めましたが、鎌倉幕府第二代執権北条義時との確執が生じます。その結果、建暦3(西暦1213)年5月2日、一族や部下を率いて大倉郷の将軍御所を襲撃し、和田合戦(又は和田義盛の乱)が起きました。
しかし、義盛公は討ち死にし、和田軍は敗北、追われる身となった一族は各所に散らばります。
その時まだ幼少であった義盛公の八男和田(又は杉本)八郎義國は近江国に逃れ、姓を「杉浦」(杉本氏の「杉」と三浦氏の「浦」)に変えて住むことになります。
義國は、後に徳川家直参旗本となる杉浦氏の祖となりますが、息子の一人である杉浦義久は、相模国愛甲郡角田へ移り住みます。
義久の生涯について詳しく分かりませんが、ある夜浅間明神(= 木花咲弥姫命:コノハナサクヤヒメ)の霊夢を見たことで、天文8(1539)年4月に武蔵国都筑郡の善部へ移り、「和田」の姓を名乗り始め、この地の名主となっていきます。
時代は流れ、義久の子孫である和田四郎左衛門は、寛永5(1628)年2月11日に地頭の宅間伊織忠次公の命を受けて、當山開山の日暁上人に自身の土地を寄進します。
これが當山の縁起となり、妙蓮寺の礎となりました。
そして現在、妙蓮寺の境内に和田義盛公を祀る祠がありますが、この祠は元々和田氏本家に構えられていました。
このことから、この地で再興した和田氏は、滅びかけた和田氏初祖の義盛公を厚く信仰していたことが伺えます。
また、その祠の隣には、和田氏一族が発起人となって大正15(1926)年に建立された和田義盛公の供養塔があり、側面に和田氏の略歴が彫り残されています。
この様に、和田氏は妙蓮寺の開山以来の深い関わりを一族であります。
1枚目の写真は、義盛公の供養塔です。
2枚目の写真は、義盛公を祀る祠です。
最後に、彫られた和田氏の略歴を若干校訂してご紹介します。
内容には史実と異なる点が見受けられますが、それでもなお、和田氏一族で代々語り継がれてきた和田氏の歴史があるという事実を伝えております。
「人皇五十代桓武天皇より平高望王九代の孫三浦大輔義明の息義宗は、和田の祖先にして頼朝郷に寵せられ侍所の別当職に任し、嗣子小太郎義盛も次で侍所の別当職に任ぜられたりしが、建暦二年(史実は同三年)五月北條氏の為鎌倉に戦死す。時に六十七歳、今を去る七百十五年。八男義國は、父兄戦死の時に末だ幼若なる故を以て、伊賀國へ引籠り、其息義久は相州愛甲郡角田の郷に住す。或夜、浅間明神の霊夢に依り、天文八年四月善部谷戸へ住す。凡三百八十八年なり。實に義久氏は當所一門之初祖とす。」
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