もろおかくまのじんじゃ
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師岡熊野神社ではいただけません
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師岡熊野神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年02月06日(月)
参拝:2023年2月吉日
人生を明るい方向へ導いてくれる様々なご利益のある導きの神様です✨祭神のお使いは八咫烏(やたがらす)というカラス、日本サッカー協会のシンボルマークになっていて公式の「サッカー御守」があるということで⚽️少年の甥っ子にと御守り目的の参拝でしたが、ちょうど品切れでした。残念😅
御祭神
伊邪那美尊(いざなみのみこと)
事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
御由緒
この神社は聖武天皇神亀元甲子年(西暦724年)に全寿仙人によって開かれ熊野山の中腹に鎮祭し和歌山県熊野三社の祭神と御一体であります。
仁和元年7月には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わりそれ以来宇多、醍醐、朱雀、村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は1060回余にもなる。
観応2年6月17日雷火のため社殿は消失したが神体、社宝は無事であり特に貞治三年の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝へて居る。例へば勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾町字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)参向儀式の行われた式坂、更にいの池(指定地域史跡)、のの池、ちの池の故事等、枚挙にいとまがない。
享禄2年北条早雲公、慶長4年徳川家康公、寛永19年家光公、寛文5年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め代々の将軍家の崇敬極めて篤く神社への御朱印は幕末まで続けられた。
明治元年神仏分離の際、熊野神社と法華寺とに二分され明治3年県社に列格したが、氏子の陳情する所あって明治6年三十三ヶ村の郷社に列した。
神社ホームページより抜粋
御祭神
伊邪那美尊(いざなみのみこと)
事解之男命(ことさかのおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
御由緒
この神社は聖武天皇神亀元甲子年(西暦724年)に全寿仙人によって開かれ熊野山の中腹に鎮祭し和歌山県熊野三社の祭神と御一体であります。
仁和元年7月には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わりそれ以来宇多、醍醐、朱雀、村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は1060回余にもなる。
観応2年6月17日雷火のため社殿は消失したが神体、社宝は無事であり特に貞治三年の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝へて居る。例へば勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾町字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)参向儀式の行われた式坂、更にいの池(指定地域史跡)、のの池、ちの池の故事等、枚挙にいとまがない。
享禄2年北条早雲公、慶長4年徳川家康公、寛永19年家光公、寛文5年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め代々の将軍家の崇敬極めて篤く神社への御朱印は幕末まで続けられた。
明治元年神仏分離の際、熊野神社と法華寺とに二分され明治3年県社に列格したが、氏子の陳情する所あって明治6年三十三ヶ村の郷社に列した。
神社ホームページより抜粋
手水舎♪
拝殿♪
本殿裏側♪
「北拝所」本殿の神様に近くから参拝できるところ✨
みくまの五木、イヌシデ
さざれ石♪
鳥居をくぐってすぐ右手にある稲荷社✨
稲荷社の横に。古そう。
書き置き御朱印♪
本殿裏にある「の」の池♪
神社向かいにある「い」の池、今は埋め立てられてしまった「ち」の池と合わせて「いのち」の池と言われていたそう😊
「い」の池にある弁天社♪
ありがとうございました🙏
すてき
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えい608投稿
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