しんめいぐう
神明宮のお参りの記録一覧
ひなぎくさんと神社⛩️お寺めぐり。
④神明宮
笠䅣稲荷神社の近くにある御朱印なしの小さい神社⛩️です。
敷地は駐車場のようでした。
ひなぎくさんから悲しい女の伝承があると入口に説明が書かれているこの内容を聞けて良かったです。気になっていたのですが、社務所は閉まっていて宮司不在神社のため確認出来ずモヤモヤしてたので、ひなぎくさんに感謝です✨✨✨
伝承内容はひなぎくさんのページへ☺️
駐車場のようです。
悲しい女の伝承とだけ書かれてました。
小っちゃい。
みきてぃさんと神奈川区の寺社巡り⑦
「神明宮」の草創はいくつか説があり定かではありませんが、もともとはお隣の能満寺の境内にあったようです。社殿こそ小さいですが、いろいろな伝承が残っています。
神明宮の境内にはかつて「梅の森稲荷」がありました。この稲荷社には「女旅人の哀れなお話」が残っています。
江戸時代中期、源氏坊天一という山伏が徳川吉宗のご落胤と吹聴し、多くの浪人・悪党どもがその配下に馳せ参じました。(天一坊事件)
その中に、赤川大膳という者がいました。美濃のある寺に居候し、夜な夜な街で強盗をくり返し、それが役人の耳に入り捕手を差し向けましたが、すでに寺を出た後でした。
大膳は江戸を目指す道中、神奈川宿へ来て亀屋という旅籠屋へ一泊します。その際、隣の部屋を覗き見ると、1人の若い女がたくさんの小判を出して勘定していました。これを見た大膳は、夜、部屋へ忍込み女を殺して金を奪い逃げました。
翌朝、女は殺され男は居らぬ状況に、上の役人に知れるとお家は欠所(財産没収刑)になるというので、亀屋は思案の末、梅林の中へ女の死体を隠しました。
この女性は神奈川近在の者で、江戸へ嫁入りしたが、たいそう婿を嫌って飛び出してしまい、尼になろうと鎌倉へ向かう道中にここへ留まっていました。
一方、婿の家では嫁が見えぬと探すうちに亀屋にたどり着き、代官が調べると宿もついに隠しきれず、梅林から死体がでてきました。
それ以来、夜になると霊が出るとか泣き声が聞こえるなど噂がたち、哀れに思った村人達が、稲荷を祀ったといいます。
大膳は天一坊とともに自滅に終わりましたが、これは稲荷の罰だと言われています。
(「横浜の伝説と口碑」より要約)
また、神明宮ご由緒の一説にはこんなお話もあります。
かつて境内を流れていた上無川の川上から、牛頭天王の御神体が流れてきて村人が一度拾い上げましたが、祟りを畏れてまた川へ流してしまいました。するとその者の一家が目の病を患いました。
天王様の御罰かと、流れの末の海の中を探しますが見つかりません。代わりに1つの神面を拾い、これを祀ると眼病が平癒したのでこのお宮を「神面社」とし、後に神明社と改めて大神宮を祭祀するようになったといいます。
このお話に出てくる上無川が「神奈川」の語源になったというお話もあります。(諸説あり)
現在、境内が駐車場になってしまっているようで少し残念ですね。
手水舎
社務所
23.02.23。先の能満寺さんと隣接する横浜市神奈川区東神奈川2丁目に鎮座。
御祭神 素盞嗚尊
大日孁尊
(あおひるめのみこと)
創建年 伝・正安元年(1299)
社格等 旧村社
例祭日 8月第4土・日曜日
【由緒】「神奈川宿歴史の道」より
神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。
『新編武蔵風土記稿』は別当能満寺の草創と同じ正安元年の勧請としており、この神社と能満寺が草創当初より極めて密接な関係があったことを伺わせる。
かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現れ、洲崎大神およびこの神社に牛頭天王を祀ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷神社には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。
当社は予定外でしたが、この先の東光寺さんへの途上で鳥居が見えたので立ち寄り参拝。社務所はありましたが、普段は無人のようです。
鳥居
社号標
手水舎
境内
※境内は月極駐車場のようです。
社殿
狛犬(阿形)
(吽形)
神楽殿
神奈川県のおすすめ2選🍁
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
4
0