おおなむぢじんじゃ
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大穴持神社ではいただけません
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大穴持神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年03月19日(日)
参拝:2023年1月吉日
【大隅國 式内社巡り】
大穴持神社(おおなむぢ~)は、鹿児島県霧島市国分広瀬にある神社。式内社で、旧社格は県社。主祭神は大己貴命、相殿神は少彦名命、大歳神、住吉大神、霧島大神。通称は「おなんぢさあ」。
創建は不詳。社伝によると奈良時代の天平年間の創建とする。『続日本紀』では、764年条で大隅國・薩摩国境での噴火により新島が出現したが、778年条で新島を造ったのは「大穴持神」で官社にしたとの記載がある。927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「大隅國 囎唹郡 大穴持神社 小」に比定されている。中世、近世においては、当地御家人が神主大宮司を担って存続したとの史料がある。明治時代に入り近代社格制度のもと県社に列格した。
当社は、JR日豊本線・国分駅の南方4kmほどの、錦江湾の内陸を通る国道504号線沿いの平地にある。境内はそこそこ広く、社殿周り以外は草木は多め。鮮やかな塗装の社殿はコンパクトサイズで、周りに5つの境内社を従えているが、その境内社の配置は江戸時代に描かれた『三国名勝図会』と同じというからすごい。
今回は、大隅國の式内社、鹿児島県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は休日の午後で、家族連れや夫婦連れ、近所の子供の軍団など、いろんな人たちが参拝に訪れていた。
境内南端入口の<社号標>。
参道を進んだ、少し奥まったところにある<鳥居>。
参道の左手にある<手水舎>。
<拝殿>全景。大きくはないが、ビビッドな色合いで、見た目にインパクトがある。
<拝殿>正面。賽銭箱が奥にあるので、靴を脱いで昇殿参拝する形。
拝殿の左手に建つ3つの境内社。左から順に<大王社(八重事代主命)>、<大田社(猿田比古命)>、<月天社(月讀命)>。
江戸時代から境内社の配置が変わらないらしい。(;゚Д゚)
江戸時代から境内社の配置が変わらないらしい。(;゚Д゚)
3つの境内社の背後にある<社務所>。御朱印は(おそらく)こちら。
参拝時は電気はついているが無人のようで御朱印は拝受できず。涙
参拝時は電気はついているが無人のようで御朱印は拝受できず。涙
手水舎の後ろ、社務所の横にある<日清日露 戦役紀念碑>。
拝殿後ろの<本殿>。サッシを使った覆屋だが、拝殿と同じく極彩色なので馴染んでいる。
右が<稲荷社(大宜都比賣命)>、左が<日天社(天照大日孁命)>。
社殿の奥の林の中に立つ<石製祠>。社名は不明。
境内東側の奥に立つ<忠魂碑>。簡素だがちゃんと鳥居と参道が付いている。
こちらは、社殿の右手の林の中に立つ<堤防復旧記念碑>。
大正時代の1914年に桜島が大爆発して海岸の堤防が決壊、当社南方の小村新田に海水が侵入し大きな被害をもたらした。その3年後の1917年に復旧が完了している。
大正時代の1914年に桜島が大爆発して海岸の堤防が決壊、当社南方の小村新田に海水が侵入し大きな被害をもたらした。その3年後の1917年に復旧が完了している。
こちらも、社殿の右手の林の中に立つ<堤塘竣工記念碑>。
昭和戦後の1951年秋のルース台風により海岸の堤防が決壊、当社南方の小村新田に海水が侵入し大きな被害をもたらした。その3年後の1954年に復旧が完了している。
昭和戦後の1951年秋のルース台風により海岸の堤防が決壊、当社南方の小村新田に海水が侵入し大きな被害をもたらした。その3年後の1954年に復旧が完了している。
最後に、<社殿>全景。サイズとしてはこぢんまりとしているが、鮮やかな彩色で強く印象に残る。(^▽^)/
すてき
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惣一郎1269投稿
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