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たきのみやてんまんぐう

瀧宮天満宮の御由緒・歴史
香川県 滝宮駅

ご祭神菅原道真公
創建時代天歴2年(948)
ご由緒

光孝天皇の御代、仁和2年正月16日、菅原道真公が御歳42歳のときに讃岐の国司に任ぜられました。
同年4月御来任、阿野南条郡滝宮の官舎に住まわれました。現在の神社境内地はその官舎跡だと伝えられています。
 
菅公はご来任間もなく国中を巡視し、つぶさに民の疾苦を問い、国民を撫育して大いに実績をあげ、
教育や勧業その他にわたって仁政を施されました。特に、教育には意を注がれ、聖廟(せいびょう)を建て、
孔子の像を祀って子弟を教育されました。
字川西喜来(あざかわにしきらい(地名))の孔聖神社、現在の権現神社はその遺跡に建てられたものであります。
 
宇多天皇の仁和4年には、麦も枯れ、田植も出来ぬ有様で国民の困窮は記語に絶するものがあったと伝えられています。
この時菅公はこの人民の苦しみを救うため、自ら身命を賭して城山に登り断食七日七夜、一身を神の捧げて
祈雨の願文を奏して人民の困苦を救済することを祈り給いました。すると菅公の祈りが通じて待望の雨が
三日三晩降り続きました。慈雨に喜ぶ国民は老若男女を問わず、国司の邸に郡集し歓喜の余り踊り舞いつつ、
菅公に感謝を表したそうです。
 
寛平元年7月の頃国内に疫病流行した際には、菅公自ら病家を訪ねて医薬につかせ、また、一方般若心経を手写しして
龍燈院に納め、息災護摩を修し、防疫に尽くされたので効験著しく、人民はことごとく菅公の仁政に感涙したと伝えられて
います。公任満ちて菅公はご帰京にのぞみ、国民は皆父母を慕う如く別れを惜しみました。
 
慶安元年、松平家初代頼重公のとき、菅公の功績を讃えて、毎年社前に執行する念仏踊りは大変貴重な神事として
非常に尊敬し、十分に保護する必要があるとして高札(こうさつ)をだされ、最も厳粛に踊りを執行されました。
現在、滝宮念仏踊は国指定重要無形民俗文化財に指定されています。

歴史
沿革[編集] 886年(仁和2年) - 菅原道真が讃岐守として讃岐国に赴任する。讃岐国国府(現・坂出市府中)に近い瀧宮の有岡屋形と、讃岐国一宮の田村神社に近い坂田郷(現・高松市上天神)の橋詰屋形の2箇所の官舎に住んでいたという。 888年(仁和4年) - 讃岐国が大旱魃に見舞われる。菅原道真は住民を救う為に、7日間断食をし、祈雨の願文を捧げて祈祷したという(滝宮の念仏踊の始まり)。 890年(寛平2年) - 菅原道真が任を解かれ、帰京する。 903年(延喜3年) - 菅原道真が大宰府で没する。 948年(天暦2年) - 菅原道真を偲び、瀧宮の有岡屋形に、現在の滝宮天満宮を創建する。 16...Wikipediaで続きを読む
引用元情報滝宮天満宮」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%BB%9D%E5%AE%AE%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE&oldid=89955894

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