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2020年10月12日(月) 18時57分 byフジクミ

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ご由緒
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承和元年(834)に、もと高水寺第五代の伝法子法宥阿闍梨が祝融山(後改めて和融山と称す)をこの地に創立、文治の頃(1185~1190)兵火に遭い荒廃しました。

承応3年(1654)川東の紫波町栃内の江岸寺第二世伝達和尚が北上川を渡船の折り、雪解けの大水で流されて、とどが淵といわれるところの渦に巻き込まれてしまいました。
このとどが淵というところは五内川等が北上川に注ぐところで、大水がでると龍が蜷局(とぐろ)を巻いたような渦巻きの淵となり、とどが淵といわれて恐れられていました。

一日半も木の葉のように回り流されて、誰も助けることが出来ません。
その夜中のこと、一人の老人が現れて「難渋してさぞや生きた心地がしなかたっでしょう」と、  藤蔓(ふじつる)をさしのべて「さあ、この蔓にしっかりとすがりなされ」というが早いか不思議にするすると蔓がのびて和尚に巻き付きました。

老人のさしのべてくれた蔓につかまって命拾いした和尚はお礼を申し上げようとすると、その老人はさっさと藪の中に入ってしまい、その後を追ったが見失ってしまいました。

心を落ち着け辺りを見回すと藤蔓に囲まれ朽ち果てた小さな社(やしろ)があり、その中に先ほどの老人に似た木像があり、額には「土倉稲荷明神」とありました。

伝達和尚は稲荷明神のご加護によって助けられたこの地に蟠龍寺を建立し、その守護神として社宇を築き祭祀をなしました。

なお、蟠龍というのはとぐろを巻いた龍を意味するところから、当寺の名は、とどが淵の渦巻きが龍がとぐろを巻いた如く見えたことに由来していると思われます。