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きんけんぐう

金剱宮の御由緒・歴史
石川県 鶴来駅

ご祭神《主祭神》
 天津彦火瓊瓊杵尊
 菅原道真
《配祀神》
 大山咋命
 少彦名命
《合祀神》
 護国の英霊,
創建時代崇神天皇三年
創始者不詳
ご由緒

古代出雲文化が早く海岸線を経て能登地方に及んだのに対し、この地方は大和文化の拠点であるばかりでなく、総じて県内では最も古い文化の発祥地であるから神社の由緒でも有名なことがらを数多く残している。中世以来白山七社の一に数えられ、そのうち白山本宮・三宮・岩本とともに本宮四社といわれていた。神仏習合の当時、いわゆる七堂伽藍雲表にそびえ神官社僧、即ち神人衆徒多数をようしていた。安徳天皇の寿永2年5月、源義仲が倶利伽羅谷で平家の軍勢を打ち破ったが、これを金劔宮の神恩として、鞍置馬20頭と横江庄を寄進し、それから3年の後、後鳥羽天皇文治2年2月10日、源義経が本社に参拝一泊し、神楽を奉納している他、足利・富樫・前田等、歴代武門藩主の崇敬が篤かったのである。なお、和銅年間に当宮のご分霊を奉戴して移住したといわれる岐阜県郡上郡大和町字「劍」には現に金劍神社(こんけんじんしゃ)があり、御祭神も同一である。最近になり福井県遠敷郡上中町武生にも金劔神社(かねぎじんじゃ)の存在が明らかとなった。[石川県神社庁:金剱宮ページより抜粋]

歴史
歴史[編集] 社伝では、創建は崇神天皇3年とされる。 神仏習合時には、多くの伽藍を有していたと伝えられる。また、寿永2年(1183年)、源義仲が倶利伽羅峠の戦いで平家に勝利した際に神宝が現れ、義仲は鞍付きの馬20頭を寄進したとされる[1]。 建武3年(1336年)北陸越前の金ヶ崎の戦い (南北朝時代)では、後醍醐天皇の御味方として足利尊氏方の軍と闘う氣比神宮に呼応し、加賀国の剣(つるぎ:金剱宮)は白山(しらやま:白山本宮)の衆徒等と共に後醍醐天皇方から御味方と頼まれる勢力であった[注釈 1] 。 明治5年(1872年)近代社格制度において「金劔神社」として郷社に列し、明治28年(1895...Wikipediaで続きを読む
引用元情報金剱宮」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%87%91%E5%89%B1%E5%AE%AE&oldid=95036860

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