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とよたしらやまじんじゃ

豊田白山神社の御由緒・歴史
石川県 金沢駅

ご祭神《合》大国主命,《主》菊理媛命,応神天皇,武甕槌命,《配》菅原道真
ご由緒

俗称を三社の宮という。この神社は、明治以前は神仏習合の形をとり長い間、三社常光寺(じょうこうじ)といわれてきた。祭祀者は天台宗の僧侶(代々広岡氏の世襲)であった。御祭神は天保12年(1841)の三社常光寺明細書(当社所蔵)によると菊理姫命、応神天皇、武甕槌神、菅原大神、金刀比羅大神、大巳貴神と書いてあるが、はっきりはしない。「亀の尾記」によると白山神、八幡神、春日神となっており、和漢三才図絵(わかんさんさいづえ)によると、伊勢神、熊野神、春日神となっている。当神社の由来については、貞享2年(1685)の由来書や、三社宮御縁起(安政6年作三社宮所蔵)には養老2年(718)泰澄大師が石川郡戸板庄に白山三カ明神を勧請し、三社権現といったのが始まりと記されているしかし、これはそのまま信じることはできないようである。ここでは白山比咩神社の社僧が乱世の際(中世の後半頃と推定)地方に四散し、この石川郡戸板郷に白山神霊を勧請して創立したものであるという加賀志徴の記録によることにした。最初の鎮座地は、石川郡戸板郷七カ村の氏神として同郡同郷の西念新保村で、次に広岡村に移り、さらに明暦元年(1655)三社村、即ち現在の場所に移ったのだと伝えられている(常光寺記)。三社常光寺は藩政時代金沢町内の有名な神社の一つで、寛文3年(1663)8月18日の祭礼には多数の群衆が集まったため殺傷事件をおこしたと伝えられている(菅家見聞集)。それは群衆が当神社の後に住んでいた与力松沢理兵衛の屋敷になだれ込んだときに、当家の妻女が長刀をもってこれを妨げたので、群衆の中の庄司権兵衛のせがれ(本多安房守家人)と浜田村助左衛門のせがれの両名が妻女を切り殺した。そのため両名は切腹を命じられたという記事である(末尾の史料参照)。三社常光寺は宝永(ほうえい)4年(1707)に社殿の改築がおこなわれ、正徳年間(1711~1716)に当社の千年祭が行われたと「亀の尾記」に記録されている。明治維新となり、神仏分離令(明治元)がだされると、三社常光寺は豊田白山神社と名が改められ、明治6年(1873)3月に村社に指定された。豊田という名は戸板郷の戸板を豊田にあてたものであるといわれている。この神仏分離令がだされたために、これまで安置されていた十一面観音、薬師如来、弥陀如来の三尊仏を西養寺(さいようじ)(天台宗で金沢市上小川町にある)に移し、明治9年仏教色はとりのぞかれた。なお西養寺に移した三尊仏のうち、薬師如来像が明治14年(1881)10月に紛失したということが当社の書類に記録されている。当社は明治39年(1906)12月に県より神撰帛料供進(しんせんはくりょうきょうしん)の神社に指定され、明治44年(1911)5月には金沢市古道の村社出雲神社が合祀され、当時盛大な合祀祭がおこなわれたと古老は伝えている。当社の祭礼は現在は5月17、18、19日と10月17、18、19日の春秋2回おこなわれており、氏子町名は長土塀2・3・4・5・6番丁、穴水町2・3番丁、三社町、宮の前、宮の後、宗叔町2番丁、三構、勝尾町、古道1・2番丁、木揚場、垣根町、三社山田町、三社川岸、南広岡、三社五十人町1・2・3番丁、三社弓の町、福富町であり、現在氏子戸数は1000軒余りである。

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