だいじょうじ
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楽しみ方大乗寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年07月22日(火) 22時58分37秒
参拝:2025年7月吉日
【東香山(とうこうざん)大乗寺(だいじょうじ)】
本尊:釈迦如来
宗派:曹洞宗
開基:徹通義介(てっつうぎかい)
~百寺巡礼:五木寛之氏が選んだ百の名刹 第14番~
大乗寺は、石川県金沢市長坂町、大乗寺山(野田山)の中腹に位置する。最初は加賀の守護の冨樫(とがし)氏によって、1263(弘長3)年に真言宗の寺として創建された。しかし、1289(正応2)年、吉峰寺で修行し永平寺の3世を務めた徹通義介(1219–1309)が招かれ、そのときから曹洞宗に変わっている。徹通義介と一緒に永平寺から移ってきた弟子の一人、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が徹通義介に次いで大乗寺の2世となり、大乗寺の基礎を整えたのちに、3世を弟子の明峯素哲(めいほうそてつ)に譲り、自分は能登に總持寺を開く。總持寺は、明治に火災で伽藍を失ったのをきっかけに能登から鶴見(神奈川県)へ移転し、元の總持寺は、伽藍が再興され「總持寺祖院」と呼ばれている。
~日本の曹洞宗を開いたの道元である。道元は、ひたすら坐禅することー「只管打坐(しかんたざ)」の禅を唱えたことで有名だ。現在の曹洞宗の総本山は、その道元が開いた永平寺と、道元の孫弟子に当たる瑩山紹瑾が開いた總持寺の2つである。そして、道元は「高祖(こうそ)」、瑩山紹瑾は「太祖(たいそ)」と呼ばれている。(中略)つまり、永平寺以外の場所に曹洞宗寺院として成立し、その地に浸透した最初の寺が、この大乗寺だということになる。しかも、その歴史は總持寺よりも古い。~
~『百寺巡礼 第二巻 北陸』五木寛之(講談社、2003)~
大乗寺は、「規矩大乗(きくだいじょう)」と呼ばれ、きびしい修行の道場として道元の禅の精神を守りつづけてきました。静かなたたずまいの伽藍を巡り、観光寺院とは違う静謐でとても心が安らぐ思いがしました。
本尊:釈迦如来
宗派:曹洞宗
開基:徹通義介(てっつうぎかい)
~百寺巡礼:五木寛之氏が選んだ百の名刹 第14番~
大乗寺は、石川県金沢市長坂町、大乗寺山(野田山)の中腹に位置する。最初は加賀の守護の冨樫(とがし)氏によって、1263(弘長3)年に真言宗の寺として創建された。しかし、1289(正応2)年、吉峰寺で修行し永平寺の3世を務めた徹通義介(1219–1309)が招かれ、そのときから曹洞宗に変わっている。徹通義介と一緒に永平寺から移ってきた弟子の一人、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が徹通義介に次いで大乗寺の2世となり、大乗寺の基礎を整えたのちに、3世を弟子の明峯素哲(めいほうそてつ)に譲り、自分は能登に總持寺を開く。總持寺は、明治に火災で伽藍を失ったのをきっかけに能登から鶴見(神奈川県)へ移転し、元の總持寺は、伽藍が再興され「總持寺祖院」と呼ばれている。
~日本の曹洞宗を開いたの道元である。道元は、ひたすら坐禅することー「只管打坐(しかんたざ)」の禅を唱えたことで有名だ。現在の曹洞宗の総本山は、その道元が開いた永平寺と、道元の孫弟子に当たる瑩山紹瑾が開いた總持寺の2つである。そして、道元は「高祖(こうそ)」、瑩山紹瑾は「太祖(たいそ)」と呼ばれている。(中略)つまり、永平寺以外の場所に曹洞宗寺院として成立し、その地に浸透した最初の寺が、この大乗寺だということになる。しかも、その歴史は總持寺よりも古い。~
~『百寺巡礼 第二巻 北陸』五木寛之(講談社、2003)~
大乗寺は、「規矩大乗(きくだいじょう)」と呼ばれ、きびしい修行の道場として道元の禅の精神を守りつづけてきました。静かなたたずまいの伽藍を巡り、観光寺院とは違う静謐でとても心が安らぐ思いがしました。

【総門】

【寺号標】

【総門】

【総門 扁額】
大乗寺は、古くは椙樹林(しょうじゅりん)、後に金獅峯(きんしほう)とも呼ばれました。
大乗寺は、古くは椙樹林(しょうじゅりん)、後に金獅峯(きんしほう)とも呼ばれました。


【写経塔】


【山門】

【山門】

【山門 扁額】

【仁王 阿形像】

【仁王 吽形像】

【しあわせの鐘】

【仏殿】
国の重要文化財。
国の重要文化財。

【狛犬 阿形】

【狛犬 吽形】

【仏殿 扁額】

【仏殿 内陣】





【法堂】

【法堂 内陣】




【御開山歴住墓所】


【山門】

【寶授地蔵尊】

【十二義士墓所】
明治に起きた日本最後の仇討ち。
加賀前田藩は幕末より明治に移る時、藩内の意見が対立しました。筆頭家老本多政均は保守派の反対にあい暗殺されました。1871(明治4)年12人の家臣はその仇討ちを果たしましたが翌年政府より切腹を命ぜられました。本多家墓地前に十二義士の墓として供養しています。
明治に起きた日本最後の仇討ち。
加賀前田藩は幕末より明治に移る時、藩内の意見が対立しました。筆頭家老本多政均は保守派の反対にあい暗殺されました。1871(明治4)年12人の家臣はその仇討ちを果たしましたが翌年政府より切腹を命ぜられました。本多家墓地前に十二義士の墓として供養しています。
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