さたけでら(ガイドブックより) さたけじ
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佐竹寺ではいただけません
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佐竹寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年09月03日(金)
参拝:2020年8月吉日
佐竹寺は、茨城県常陸太田市にある真言宗豊山派の寺院。山号は妙福山、院号は明音院。本尊は十一面観世音菩薩。別名「北向観音」。坂東三十三観音霊場22番札所。本堂は国指定の重要文化財。
寺伝によると、平安時代初期の807年、徳溢(とくいつ)大師の開創とあるが、『坂東霊場記』によると985年、花山法皇の勅願により元密上人の創建とあり、その時元密が花山法皇から託されたのが聖徳太子作の十一面観音像と記されている。平安時代後期の1140年に源昌義が寺領を寄進し、勅願寺に定め、当寺で節が20尋(約36㎝)に一つしかない珍しい竹を見つけ瑞兆とし、自らの姓を「佐竹」と改めた。当初当寺は「観音寺」と呼ばれ観音山にあったが1543年に焼失、18代佐竹義明が佐竹城の鬼門除けとして現在地に再建。最盛期には6支院3ヶ坊を有したが、関ヶ原の戦い後、佐竹氏が出羽に移封され衰微。江戸時代は坂東三十三観音霊場の札所として賑わったが、明治に入り廃仏毀釈により荒廃し、昭和戦後の1949年まで無住の寺であった。
当寺は、JR水郡線(支線)・谷河原駅の西北西2kmの平坦な高台にある。幹線道路(県道61号線)の脇にあってアクセスは良好。境内はさほど広くはなく、上述の通り往時を偲ぶ建物は、国指定の重要文化財となっている<本堂>のみ。ただ、この本堂がインパクト大で、茅葺の寄棟造、正面に唐破風付、主屋の周囲に杮葺きの裳階を巡らした、桃山建築のテイストが残るもの。一度見ると忘れない。
今回は、坂東三十三観音霊場の札所として参拝することに。参拝時は週末の午後で、自分たち以外に参拝者はいなかった。
寺伝によると、平安時代初期の807年、徳溢(とくいつ)大師の開創とあるが、『坂東霊場記』によると985年、花山法皇の勅願により元密上人の創建とあり、その時元密が花山法皇から託されたのが聖徳太子作の十一面観音像と記されている。平安時代後期の1140年に源昌義が寺領を寄進し、勅願寺に定め、当寺で節が20尋(約36㎝)に一つしかない珍しい竹を見つけ瑞兆とし、自らの姓を「佐竹」と改めた。当初当寺は「観音寺」と呼ばれ観音山にあったが1543年に焼失、18代佐竹義明が佐竹城の鬼門除けとして現在地に再建。最盛期には6支院3ヶ坊を有したが、関ヶ原の戦い後、佐竹氏が出羽に移封され衰微。江戸時代は坂東三十三観音霊場の札所として賑わったが、明治に入り廃仏毀釈により荒廃し、昭和戦後の1949年まで無住の寺であった。
当寺は、JR水郡線(支線)・谷河原駅の西北西2kmの平坦な高台にある。幹線道路(県道61号線)の脇にあってアクセスは良好。境内はさほど広くはなく、上述の通り往時を偲ぶ建物は、国指定の重要文化財となっている<本堂>のみ。ただ、この本堂がインパクト大で、茅葺の寄棟造、正面に唐破風付、主屋の周囲に杮葺きの裳階を巡らした、桃山建築のテイストが残るもの。一度見ると忘れない。
今回は、坂東三十三観音霊場の札所として参拝することに。参拝時は週末の午後で、自分たち以外に参拝者はいなかった。
境内入口の<仁王門>と<寺号標>。県道・日立笠間線脇にあって、北東向きに立っている。
仁王門には、<妙福山>の扁額の上に、佐竹藩の家紋である<日の丸扇>が掲げられている。
仁王門の裏に置かれている<鬼瓦>。仁王門は1940年に再建されているが、この<鬼瓦>は旧仁王門のもの。
参道右側にある簡素な<水屋>。
藁葺屋根が印象的な本堂に徐々に近づく。手前左は乳が垂れた銀杏の巨木。
<本堂>全景。戦国時代の1543年再建、単層裳階付、寄棟造、唐破風、藁葺。室町時代後期建築の豪壮なテイスト。国指定の重要文化財。
<本堂>正面。無数に張り付けられた千社札さそのまま残っているが、逆に良い味を出している。
<本堂>斜めから。藁葺屋根の厚みが半端ない。柱などの枯れた感じを含め、非常に美しい。
本堂の左側にある鎮守社。
境内はコンパクトなので見て廻るのに時間はかからないが、仁王門と本堂は強烈なインパクトがあって◎。
すてき
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惣一郎1269投稿
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