むねとうじんじゃ
宗任神社の編集履歴
ご由緒
阿部宗任公死一等を減じて、肥前に流され九州在住四十七年、天仁元年戊子九月九日享年七十八歳にして亡くなる。
松本七郎秀則の夢の中に、宗任公の霊魂妙音を以て告げる、『・・・・是より南尽未来際に鎮衛、有緑の地有り。抑も汝秀則、秀元父子は、是れ則ち我が家臣の末裔なり。且つ将に落葉の諸臣処処に漂泊して、在在に沈没す。其中に於て、稀に我が祖先の恩顧を追憶し、志を一にし、信を凝らす者有り。昔年我が著くる所の青龍と名づけし甲冑、封じて今現に鳥海の古城の石窟に在り。尋ねて探索し出だして各々護持し、以て南方に行くべし』。天仁二年、松本七郎秀則子八郎秀元父子と旧臣(普代郎)二十四名(和泉氏、栗原氏、小田氏、岩瀬氏、高野氏、黒川氏、佐藤氏、村山氏、岩手氏、上山氏、斉藤氏、岩沼氏、山本氏、安積氏)等と共に、宗任公の遺物を奉じ出羽国鳥海山麓を発して、野州二荒山麓にたどりついた。そこで一夜の宿を求めた樵の教える通りであった。一同は魚夫に頼んで、その小舟に乗せてもらい、川を下ることとなった。魚夫は二十八人もの人と沢山の荷物が乗れるかどうか案じたが、不思議にも納まってしまった。舟は水流に乗り、矢のごとく下った。そして、あっと言う間に下野と常陸の国境を過ぎ、下総国に入った。川が湾曲しているところへ来ると、小舟が動かなくなり、一同は宗任公の霊魂だろうと上陸した。田間の道に入ると、道が滑りて歩くことかなわず。奇怪にして恐らく察するに神慮、必ず此の奇事を随わせる。里人と語らいて、その日のうちに一棟の霊祠を造建し、滑田郷と名づけ、滑田明神(下妻市二本紀の香取神社)と号す。尚、一同は東に行く。しばらくすると侘人が持ちし宝器重く動かなくなり、松本氏が代わりに持つが、やはり動かず。それを見ていた旧臣の一人が「松本殿岡の如く動かず」と言い、松岡明神と号す。尚、東南方に三里行く。黒巣郷有り、一同は郷長に頼み宿泊した。するとその夜、秀則の夢の中に、宗任公の霊魂超勝絶妙の音韻を以て親しく告げる、『我、兼て吾が子に示す所の処は、即ち此れ是の境地なり。・・・一基の神祠を祝祭すべし。・・・郷名を改め、是れ自り後来、宗道郷と称すべき者なり。(黒巣の地名を、天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と改めれば、人はすこやか、地は栄えるであろう。)・・・次に、三分の中、鎧一具を以て東南の鯨郷に鎮祭し、鎧明神と号すべきなり。(黒巣郷からみて東南巽は風の暴ら神の住む方向であるから、その暴らき風神を鎮め樹木をまもるため)・・・次に、東に大苑木郷あり、青龍逆角の一分の兜を鎮祭し、甲明神と号すべきなり。(青龍は雷神で雨を齎す農業の神から、東方の大苑木の繁った郷に)・・・』。翌朝、郷長に話語らい、一社を造建して、宗道郷鎮守宗任大明神と尊称す。元永二年晩秋良辰吉日に、神職松本七郎秀則、長男八郎秀元親子、慎み敬いて、宗任大明神の因縁起来由を書き記す。
その後、郷長黒須大学、娘を八郎秀元に嫁がせ、黒須家は、赤巣(赤須)郷に鹿島香取社と共に転宅する。それにより地名若宮戸と呼ぶ。又、鯨郷大苑木郷に其々社を鎮め祀る。
戦国の世は、小田城主氏治殿月参り、豊田城主四郎将基殿日参りの程共に尊崇篤く、社途中より下馬参向の礼をとり、今日『駒止め』の地名のこる。又、豊田氏よりは、当社に祭祀料として、滑田、松岡、田下、下栗、宗道、鯨、大苑木の地を奉納。(これが手向郷の根源と一説に伝う)他、豊田氏、当社の御分霊を豊田城外に祀る。(阿部神社)鎌倉時代より当社は、豊田三十三郷幸嶋十二郷総社となる。(計四十五郷鎌倉時代の水帳《地検帳》当社に現存す)江戸時代、三代将軍家光公より代々、祭祀料朱印五石を賜る。又、日光東照宮完成のおり家光公より、本殿拝殿を奉納。(当里宗道河原より日光へ資材等を送る)明治時代、廃社の厄を恐れ、祭神阿部宗任命の仮名とし、天津彦々穂之瓊々杵命と号した。同十三年、大火にて本殿拝殿失う。同十七年、本殿拝殿完成。昭和五十三年、『第一期モデル神社』指定。平成元年、宗任神社の森『茨城県の自然100選』に選ばれる。
ご祭神/ご本尊
阿倍宗任公・阿部貞任公
編集前:阿倍宗任公 あべむねとうこう(弟)
阿部貞任公 あべさだとうこう(兄)
創立
天仁二年(1109)