ぜんぷくじ
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善福寺ではいただけません
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善福寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年12月23日(金)
参拝:2022年12月吉日
善福寺(ぜんぷくじ)
~eve⭐eveに美しいお寺さま~
山号 大澤山
宗派 曹洞宗
御本尊 釈迦牟尼仏
あごなし地蔵尊(秘仏)
札所
郡西国三十三札所第二十番
坐禅会開催日
毎月第2土曜
夏19:30~21:30
冬19:00~21:00
1.8月お休み
奥様より、御朱印はお断りしていましたが、前にお二人お書き入れ致しました。
御朱印帳をお預かりして、御住職にお願いしておきます。ゆっくり素晴らしいものになりますように。と、お正月の座禅会にお招き戴けました。
また、御本尊とあごなし地蔵尊のご開帳があるとのことです。
早朝ですが、参加できますことを楽しみに精進します。
あごなし地蔵尊
古くは小野篁(802~852年 平安初期の漢詩人、歌人、参議等)が遣唐使渡航失敗や拒否で隠岐に流された折、思いを寄せた人の歯痛平癒のため建てたと言われています。
小野篁は、小野小町、小野道風の祖父とも言われています。
また、曹洞宗のお寺さまにお見受けできることと、歯痛祈願する習俗は島根・新潟・岐阜・長野・神奈川等に多く、この地蔵尊は全国異称地蔵一覧 日本寺院名鑑地」に明記されていますが、制作年代等の詳細は不明です。
~以下、飯沼先生『ひろかずのブログ』より~
「播磨西国霊場めぐり」よりも簡単に、誰にでもできる巡礼として、加古郡内に三十三観音めぐりの霊場が定められました。
これが「郡西国三十三札所(郡西国ともいう)」です。
この郡西国の二十番札所が、大中村の善福寺でした。 なお、善福寺の境内には三十三体の仏様が安置されています。
善福寺 ・ 西国巡礼・郡西国二十番札所 播磨町をゆく
大澤小学校(だいたくしょうがっこう)
学制(がくせい) 時代は、江戸時代から明治時代へとかわりました。 世界に目を開いた日本は、その遅れを取りもどすために、まず教育に力を注ぎます。
そして、明治5年(1872)8月「・・・・一般の人民は、必ず不学の戸なく、家に不学の人がいないようにする・・・」という大目標をかかげて教育の普及につとめました。 これが「学制」です。
この学制が実施された3年後の明8年には、全国に24,225の小学校がつくられました。 しかし、就学率は3割程度であったといわれています。
大澤小学校(だいたくしょうがっこう) この、学制により、播磨町域で最初につくられたのが大澤(だいたく)小学校でした。 大澤小学校は、大澤、野添、二子(ふたこ)、古田、東中野、山之上(やまのうえ)を学区として、現在の大中の善福寺境内に開設されました。 こうした初期の学校は寺院の一隅や民家を使って始められ、教員は二名か三名がふつうでした。 まさに、「明治版・寺子屋」です。 新政府は、火の車で、施設その建設費は国や県から支給されません。苦肉の策として多くの場合、寺が利用されました。 それに、小学校といえども現在と異なり授業料50銭が必要でした。 ですから、苦しい生活の中で学校制度反対運動も各地でおきています。 明治17年(1884)には大澤、本荘の両小学校が合併して、阿閇(あえ)小学校と改称され、明治33年(1900)、現在の播磨小学校の地に、木造校舎の阿閉尋常小学校が建てられました。 なお、戦後の昭和21年(1946)、阿閇村立阿閇小学校と名称が変わり、昭和22年、六・三制により、阿閇中学校(現:播磨中学校)が阿閇小学校を仮校舎に開校されました。 現在、善福寺の境内には大澤小学校跡を示す石碑が建てられています。
~・~・~・~・~
加古郡播磨町大中566
TEL 079-437-8074
最寄駅 (電車の方)
JR.土山駅より、西南へ徒歩20分、
山陽電車播磨町より、北へ徒歩15分
(車の方)250線 大中南交差点より1分
~eve⭐eveに美しいお寺さま~
山号 大澤山
宗派 曹洞宗
御本尊 釈迦牟尼仏
あごなし地蔵尊(秘仏)
札所
郡西国三十三札所第二十番
坐禅会開催日
毎月第2土曜
夏19:30~21:30
冬19:00~21:00
1.8月お休み
奥様より、御朱印はお断りしていましたが、前にお二人お書き入れ致しました。
御朱印帳をお預かりして、御住職にお願いしておきます。ゆっくり素晴らしいものになりますように。と、お正月の座禅会にお招き戴けました。
また、御本尊とあごなし地蔵尊のご開帳があるとのことです。
早朝ですが、参加できますことを楽しみに精進します。
あごなし地蔵尊
古くは小野篁(802~852年 平安初期の漢詩人、歌人、参議等)が遣唐使渡航失敗や拒否で隠岐に流された折、思いを寄せた人の歯痛平癒のため建てたと言われています。
小野篁は、小野小町、小野道風の祖父とも言われています。
また、曹洞宗のお寺さまにお見受けできることと、歯痛祈願する習俗は島根・新潟・岐阜・長野・神奈川等に多く、この地蔵尊は全国異称地蔵一覧 日本寺院名鑑地」に明記されていますが、制作年代等の詳細は不明です。
~以下、飯沼先生『ひろかずのブログ』より~
「播磨西国霊場めぐり」よりも簡単に、誰にでもできる巡礼として、加古郡内に三十三観音めぐりの霊場が定められました。
これが「郡西国三十三札所(郡西国ともいう)」です。
この郡西国の二十番札所が、大中村の善福寺でした。 なお、善福寺の境内には三十三体の仏様が安置されています。
善福寺 ・ 西国巡礼・郡西国二十番札所 播磨町をゆく
大澤小学校(だいたくしょうがっこう)
学制(がくせい) 時代は、江戸時代から明治時代へとかわりました。 世界に目を開いた日本は、その遅れを取りもどすために、まず教育に力を注ぎます。
そして、明治5年(1872)8月「・・・・一般の人民は、必ず不学の戸なく、家に不学の人がいないようにする・・・」という大目標をかかげて教育の普及につとめました。 これが「学制」です。
この学制が実施された3年後の明8年には、全国に24,225の小学校がつくられました。 しかし、就学率は3割程度であったといわれています。
大澤小学校(だいたくしょうがっこう) この、学制により、播磨町域で最初につくられたのが大澤(だいたく)小学校でした。 大澤小学校は、大澤、野添、二子(ふたこ)、古田、東中野、山之上(やまのうえ)を学区として、現在の大中の善福寺境内に開設されました。 こうした初期の学校は寺院の一隅や民家を使って始められ、教員は二名か三名がふつうでした。 まさに、「明治版・寺子屋」です。 新政府は、火の車で、施設その建設費は国や県から支給されません。苦肉の策として多くの場合、寺が利用されました。 それに、小学校といえども現在と異なり授業料50銭が必要でした。 ですから、苦しい生活の中で学校制度反対運動も各地でおきています。 明治17年(1884)には大澤、本荘の両小学校が合併して、阿閇(あえ)小学校と改称され、明治33年(1900)、現在の播磨小学校の地に、木造校舎の阿閉尋常小学校が建てられました。 なお、戦後の昭和21年(1946)、阿閇村立阿閇小学校と名称が変わり、昭和22年、六・三制により、阿閇中学校(現:播磨中学校)が阿閇小学校を仮校舎に開校されました。 現在、善福寺の境内には大澤小学校跡を示す石碑が建てられています。
~・~・~・~・~
加古郡播磨町大中566
TEL 079-437-8074
最寄駅 (電車の方)
JR.土山駅より、西南へ徒歩20分、
山陽電車播磨町より、北へ徒歩15分
(車の方)250線 大中南交差点より1分
すてき
投稿者のプロフィール
四季495投稿
住吉大神の宮九箇処
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東村の 神の子 弦申様は
播州一の男前 おとこまえーっ♪
播州地搗歌 阿弥陀東
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長崎くんち💖🤍🩵
お気に入りの霊場を少しずつ巡礼しています。
よろしくお願いします。
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