ふだらくじ|天台宗|水尾山(みずおさん)
補陀落寺のお参りの記録一覧
水尾山 補陀落寺(ふだらくじ)
~隠棲地能登殿屋敷と平教経~
山号 水尾山(みずおさん)
宗派 天台宗
御本尊 十一面観世音菩薩
脇士 毘沙門天・不動明王
開基 性空上人
札所
播磨四国第三十番
飾磨郡西国第十四番
御詠歌
ありがたや みづののやまのくわんぜおん
ひぶせたまふぞ あらたなりけり
補陀落や いまひとほしの いろやます
たかきみやまの まつのときはも
一、当寺は冷泉天皇の御代、性空上人当山に於いて観音の尊像を刻み寺堂に安置し、日夜法華経を読誦ぜりという。 後天禄二年(971)に至り、伽藍始めて建立し寺号を補陀落寺と称せしが、文明四年(1472)兵火に懼りて寺堂は勿論、多くの寺宝日記等悉く焼失し、一時中絶の姿であったという。 享保二年(1717)快翁和尚入りて当時を中興し現在に至る。
天台宗本山比叡山延暦寺にして書写山園教寺の末寺なり。
一、当寺はもと篠原山と称せり、昔書写山本堂再建の際、材木不足せしを幸に当山に良材あり直ちに斧入をなしこれを運送することになった。然し運搬に甚しく困難なりしが、不思議や俄然雷雨激しく大水溢れ遂に無事書写山西條まで流出せしめたという、故に中興以後水尾山と称せり。(飾磨群誌記)
一、当寺本堂観音堂は、本尊十一面観世音菩薩にして厄除け観音としての祈願所なり。当建造物は桃山時代の建立と思われる。県指定重要文化財、姫路市指定重要文化財、
天台宗
水尾山 補陀落寺 現住 恵行
観音堂 屋根は茅葺であったのを昭和十三年三月瓦葺にする。付近を掘ると古い瓦が無数に出土する瓦から大昔は瓦葺であったように思わる。 建築年代は桃山時代のものと思われる。
※当時は冷泉天皇御代性空上人「書写山」山より来りて開山する。
※当山内より宋銭を始め中国古銭が多数発掘された
県指定文化財
夢前町指定文化財
山号はもと篠原山と称したが、書寫山本堂再建の際に材木が不足していたのを、当山に良材があるので、これを運搬することになった。
しかしこれは困難を極めた。この時不思議にも雷雨となり大水溢れて、遂に書寫山西麓までこれを流出せしめたいう。
故に中興以後「水尾山」と改称したという。
御本堂(観音堂)は、県指定文化財に指定されている(昭和56年)。
又、自然環境保全地域に兵庫県より指定された(昭和50年)。
4月16日 聖天祭
8月 9日 四万六千施餓鬼会
12月 天台大師講会
✴隠棲地能登殿屋敷と平教経✴
=北陸特有の被帽地蔵=
平家末期の1184年(寿永3年)、攝津の一の谷で源平の合戦が始まり、平氏の全盛時代を築いた平清盛の甥の能登守教経も出陣してたが、源氏の大将源義経に後方から攻められ負け戦となった。
戦いに敗れた教経は愛馬薄墨に乗って落ち延び、補陀落寺に辿りつき寺の和尚さんにかくまわれた。
その後、補陀落寺の庫裏の前の広場の片隅に教経の住居が作られ、いつしかこの住居は教経の隠棲地の住居ということで、能登殿屋敷と呼ばれるようになった。
教経の家来たちもふもとの村人の助けを得て、村で生活をはじめた。家来たちの中には能登の国より妻子を呼び寄せ村人に溶け込んでいった。なかには、日頃崇拝していた地蔵像を持ってきた者があり、このお地蔵様は帽子をかぶった北陸特有の被帽地蔵で、今も補陀落寺にまつられている。 『夢前の民話』より
北陸能登被帽地蔵 このお地蔵様は頭に帽子を被った北陸特有の被帽地蔵と呼ばれている。
「自然環境保全地域水生山補陀落寺」 指定区域:飾磨郡夢前町莇野の一部 指定面積:13.5ヘクタール
指定年月日:昭和50年3月11日 この地域はコジイ、カナメモチを中心とした貴重な天然林である。
兵庫県 『水尾山天台宗補陀落寺観音堂』
登り口→ 水尾山 補陀落寺 天台宗穂陀寺は天禄二年(971)に性空上人が開基された、その後文明四年(1472)兵火にかかり寺は焼失したが仏像は難を免れた。
本堂は方形造でもと茅葺であったが、昭和13年(1938)桟瓦葺に改修された、神戸大学教授多淵敏樹先生は17世期の建立と推定され元兵庫県教育主事島田清先生は向拝・蟇股は桃山時代のものと判定されている。
正徳元年(1711)改修の棟札がある
小規模であるが礼堂形式のなごりをとどめた遺構として注目に値すると言われており兵庫県重要文化財に指定されている。 ○○○○○寛文11年(1671)刻ノ二月彼岸○○○○○墨銘のある木鐘を蔵する。本建物の建立に○○を持つ一〇左であろうか、内陣中に性空上人作と伝える十一面観音像を安置し脇立に毘沙門天と不動尊をまつる。
庫裡の仏間に安置されている弥陀三尊は性空上人の護持仏で聖徳太子の作と伝えられ、同じ仏間に馬谷(もうだに)の神元神社の神宮寺にまつられていた。
🪷🪷🪷🌿
補陀落(ふだらく、梵: Potalaka)は、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。その山の形状は八角形であるという。インドの南端の海岸にあるとされた。補陀落山(ふだらくせん)とも称す。
念願の水尾山 補陀落寺さまへお参りできましたが、時間が深く、日にちを改めてまた夢前町の表裏巡礼できたらと思います。
仏像・姫路市文化財保護課資料等編集中です。
水尾山 補陀落寺
〒671-2106
兵庫県姫路市夢前町莇野2022
079-336-2334
✴隠棲地能登殿屋敷と平教経✴
=北陸特有の被帽地蔵=
平家末期の1184年(寿永3年)、攝津の一の谷で源平の合戦が始まり、平氏の全盛時代を築いた平清盛の甥の能登守教経も出陣してたが、源氏の大将源義経に後方から攻められ負け戦となった。
戦いに敗れた教経は愛馬薄墨に乗って落ち延び、補陀落寺に辿りつき寺の和尚さんにかくまわれた。
その後、補陀落寺の庫裏の前の広場の片隅に教経の住居が作られ、いつしかこの住居は教経の隠棲地の住居ということで、能登殿屋敷と呼ばれるようになった。
教経の家来たちもふもとの村人の助けを得て、村で生活をはじめた。家来たちの中には能登の国より妻子を呼び寄せ村人に溶け込んでいった。なかには、日頃崇拝していた地蔵像を持ってきた者があり、このお地蔵様は帽子をかぶった北陸特有の被帽地蔵で、今も補陀落寺にまつられている。 『夢前の民話』より
北陸能登被帽地蔵 このお地蔵様は頭に帽子を被った北陸特有の被帽地蔵と呼ばれている。
被帽地蔵さま??
車道は通行止め。初めてのお山は心細かったですが、もう大丈夫V。
平教経公をかくまわれたという場所に納得しました。
観音堂(御本堂)へ
御本堂
被帽地蔵さま
弥陀三尊碑後方に庫裡
三尊~こちらの前が広場?
被帽地蔵さま
複数の由緒書があります
以前は庫裡まで車で上がれたようですが、今は上り口にチェーンがあります
⛔
ここから少し進むと、歩いて行ける階段があります(2kmと書いてありました、、)
途中の 湧き水?
さいわいの谷からの湧き水
「幸せの水」
川も透明度が素晴らしいです
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