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来迎寺ではいただけません
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来迎寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年08月08日(月)
参拝:2022年7月吉日
曹洞宗 天照山 来迎寺(らいこうじ)
JR宝塚線「三田駅」から北側へ徒歩で約15分ほどのところになります。
とても見晴らしのよいところで、三田の街が一望できそうでした。
来迎寺HPによると、「大化の改新」の頃、「一国に一国分寺、一郡に一来迎寺あり」とされ、宗派を問わず全国に来迎寺という名の寺が誕生したそうです。
こちらの来迎寺はその当時のものかどうかは不明だとか。
もとは真言宗だったようですがひどく荒廃してしまい、三木市の雲龍寺(曹洞宗)第六世、哉安慧善大和尚が、来迎寺第二世、楞宗智白大和尚に命じて来迎寺を再建させたそうです。
その際に曹洞宗に改宗、安永5年(1776年)のことだそうです。
本堂など比較的真新しい感じだったのですが、昭和35年頃から檀信徒をはじめとする人たちから修復の気運が強まり、参道の拡張や舗装を進め、昭和58年には本堂、庫裡の新築に至ったそうです。
またこの来迎寺には御本尊釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩が祀られていますが、そのほかにも一寸八分の千手観音が祀られています。
源平合戦で平家一門が壇の浦で滅亡したあと、宮崎県日光へ落ち延びた平景清(悪七兵衛景清)は畠山重忠に捕らえられます。
景清は宮崎で深く神仏に帰依し、社寺を建立したりしていました。
この景清の娘・人丸姫は父を訪ねて宮崎に行き、父との対面を果たします。
そして鎌倉へ帰る際に、景清から一寸八分の千手観音像を手渡されます。
人丸姫は須磨浦まで海路で進みそこから陸路を取りますが、病に倒れたところ、この来迎寺で千手観音像を祀り、病の回復を祈ると病は快癒。
人丸姫はこの千手観音像をそのまま来迎寺に安置し、京都を経て鎌倉に戻ったそうです。
JR宝塚線「三田駅」から北側へ徒歩で約15分ほどのところになります。
とても見晴らしのよいところで、三田の街が一望できそうでした。
来迎寺HPによると、「大化の改新」の頃、「一国に一国分寺、一郡に一来迎寺あり」とされ、宗派を問わず全国に来迎寺という名の寺が誕生したそうです。
こちらの来迎寺はその当時のものかどうかは不明だとか。
もとは真言宗だったようですがひどく荒廃してしまい、三木市の雲龍寺(曹洞宗)第六世、哉安慧善大和尚が、来迎寺第二世、楞宗智白大和尚に命じて来迎寺を再建させたそうです。
その際に曹洞宗に改宗、安永5年(1776年)のことだそうです。
本堂など比較的真新しい感じだったのですが、昭和35年頃から檀信徒をはじめとする人たちから修復の気運が強まり、参道の拡張や舗装を進め、昭和58年には本堂、庫裡の新築に至ったそうです。
またこの来迎寺には御本尊釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩が祀られていますが、そのほかにも一寸八分の千手観音が祀られています。
源平合戦で平家一門が壇の浦で滅亡したあと、宮崎県日光へ落ち延びた平景清(悪七兵衛景清)は畠山重忠に捕らえられます。
景清は宮崎で深く神仏に帰依し、社寺を建立したりしていました。
この景清の娘・人丸姫は父を訪ねて宮崎に行き、父との対面を果たします。
そして鎌倉へ帰る際に、景清から一寸八分の千手観音像を手渡されます。
人丸姫は須磨浦まで海路で進みそこから陸路を取りますが、病に倒れたところ、この来迎寺で千手観音像を祀り、病の回復を祈ると病は快癒。
人丸姫はこの千手観音像をそのまま来迎寺に安置し、京都を経て鎌倉に戻ったそうです。
すてき
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