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ほっかいどうごこくじんじゃ

北海道護國神社の編集履歴
2024年02月07日(水)
北海道 新旭川駅

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高砂あさっぴー
2024年02月07日 21時44分

ご由緒

本神社は遠く明治35年5月5日時恰も日露の風雲急なる最中に旧第七師団長大迫尚敏氏主祭の下に練兵場に小祠を設け北海道に於ける国事殉難者並開拓に殉じた屯田兵の招魂祭典を挙行したのに始まる。
日露戦争勃発するや我が北鎮師団は旅順の功撃奉天の大会戦に参加し、勇名を謳はれたが、その戦歿者は無慮4,500名に及び戌辰、西南、日清の諸役の戦歿英霊に加えて五千柱に垂んとするに至ったのでここに社殿創建の議が興り、明治43年時の第七師団長上原勇作並北海道長官河島醇両氏の発起の下に道内有志の賛助を得て、現在地に社殿を建築し之等英霊を祀り爾来毎年6月5、6日を例祭と定め、師団長、長官交互に祭主となり軍官民挙げて盛大な祭典を執行し来った。
かくて昭和時代に入るや境内狭隘を告げ、社殿亦腐朽して本道随一の招魂場として遺憾の点尠からざるため、昭和10年師団長杉原美代太郎氏長官佐上信一氏等全道68名の要路の人々が発起の下に道内より浄財を募りよく所期の目的を達成し昭和10年4月26日北海道招魂社として内務大臣より指定され神徳いよいよ遍くするに至った。昭和14年4月1日官制の改まる処により北海道護国神社と改称し、更に社頭の整備を進め、茲に全道の英霊の総祀社として名実を兼備するに至った。
昭和6年満州事変以来支那事変はもとより、昭和16年12月8日大東亜戦争の勃発するや、北鎮の将兵は或は極北のアッツ島に或は灼熱の大陸の曠野に、或は南海の孤島に、或は洋上に、大空に勇躍征途に上って祖国防衛の任に当り、第二次世界大戦の最終戦争たる沖縄の玉砕に至るまで実に55,000柱の尊い身命を祖国に捧げられたが、英魂は永遠に故郷のこの御社に鎮まり給うた。
昭和20年8月15日大東亜戦争の終結を見るや占領政策の然らしむる処により神社の存立すら危殆に瀕する悲運に際会したが祀職並関係者命を堵して之を護持し祭祀遂に一日も滞ることなく国家独立の後は道民崇敬の至誠は澎湃として興り、その例大祭の如きは今や全道の一大祭典として盛大を謳はるるに至った。然るに終戦後合祀する英霊は実に戦前の12倍に及び樺太関係英霊の合祀者も数を増し、社殿の狭隘年次その度を加えるに至ったので昭和35年4月造営奉賛会を結成し町村金五氏(知事)を総裁に再び全道市町村より浄財を募り茲に社殿の大改築をなし昭和40年4月完工した。
平成23年には御創祀110年を記念し、その事業として5ヵ年を懸けて御本殿以下屋根銅板の葺替工事を完工し、現在に至る。
(北海道護國神社公式HPから引用)

見所

戊辰戦争から太平洋戦争までの北海道・樺太の国事殉難者63,141柱を祀る護國神社。
旧陸軍第七師団縁の神社で隣には北鎮記念館があります。

トイレ

参集殿横(冬季は閉鎖)

創始者/開山・開基

大迫尚敏

本殿/本堂の建築様式

総流造

文化財

平成館(登録有形文化財)

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