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木舟山 順教寺の日常(64回目)広島県志和口駅

開花するロウバイ(蝋梅)に気づかされたこと。

投稿日:2022年02月10日(木)
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寒い日が続いていますね。

今朝、寒いな~寒いな~と思いながら、中庭を掃除しているとロウバイの綺麗な黄色の花が開花しているのが目に映りました。

その様を見ていると、ふと中国の洞山大師(とうざんだいし)という高名な禅僧の逸話を思い出しました。

ある時若い僧が洞山大師を訪ね、「暑さや寒さから逃れるにはどうすれば良いでしょうか。」と質問をしたそうです。大師は、「暑くもなく寒くもない所に行けばいいんじゃないんですか。」と答えたそうです。

若い僧は、さらに「暑くもなく寒くもない所とはどういう所ですか?」と尋ねたそうです。

大師は、「寒い時には寒さに徹し、暑い時には暑さに徹することだよ。」と答えられたそうです。まさに禅問答といった感じです。

大師が言われたかったことは、「暑さ寒さを逃れたところに快適な場所があるわけではなく、快適な場所は自分の中に存在するんだよ。」だそうです。

自分の思い一つで暑さや寒さの感じ方が変わるということです。

ロウバイは、どんなに寒く雪が積もっている日にも佇まいを崩すことなくキリっとしていて黄色い綺麗な花を咲かせています。

寒いからといって、「寒い~寒い」と動揺している自分はまだまだ未熟だなと反省する今朝の出来事でした。
木舟山 順教寺の自然
木舟山 順教寺の自然
木舟山 順教寺(広島県)

すてき

みんなのコメント2件)

熊谷 兼高さま  いつもお世話になっております。
当地、野田市、おかげさまで、今日(2/26)は実に穏やかな日となりました。
昨日までは、風つめたく、外出するのもためらわれるような陽気でしたが。
今日と昨日の違いは何でございましょう!

今日は南風が、吹き込んでいたのですね。
うちの老熟犬も、のんびりしていましたね。

自分ではわかっているつもりです、が、春前の厳寒には、年のせいもあるのですが、閉口するばかり。
この寒さは、何なんだろう、と。くだらないですが。

昨日、NHKのニュースで、自分の真冬寒中の水業の様子をYouTubeでライブ配信されている、若い住職さまを取り上げていました。
その様子は見るだけで、身もココロも縮み上がるのですが、しかし目をそらすことができない気迫が伝わってきましたね。
そこには、とりあえず「カッコだけでも」という下心はまったく見えず、
「ココロの持ち方でヒトは変われるよ」
、というご自身の信念と、その信念に基づく結果を見事しめされていました。
真言系の信心を持つわたくしはうなずくばかりでしたが、最近考えるのは、修行の一環だとしても、一体どこまで己を追い込めばいいのか?ということ。
つらいこと・苦しいことを、どう捉えればよいのわからなくなっています。
多分宗派でそれの捉え方は変わるのでしょうが、宗祖の仏陀はどうお考えだったのでしょうね?
このところ、そんなことを、よく考えます。

年の、せいですかね

2022年02月26日(土)

弘法様、いつもコメントありがとうございます。

最近、寒さが少しづつ落ち着いてきてますよね。

こちらは少しづつ、梅の花や河津桜などは開花してきていてもうすぐ春だということが実感できるようになりました。

といっても、まだまだ日によっては0度を下回る日がありますが・・。

真冬寒中の水業ですか、、一番寒い時期にそのような苦行をされるとはその若い住職さんは凄いですね。

「修行で一体どこまで己を追い込めばいいのか・・。」、この問いに対する答えはなかなか難しいですね。

仏教における修行は、己の内に存在する煩悩=(欲望と執着)を滅するために行っています。仏教では、煩悩がすべての苦(自分の思い通りにいかないことで発生する苦しみ)の原因であると考えているからです。

仏陀は、その煩悩を断ち苦を無くす方法を求めて様々な修行を経て悟りを開き、煩悩を断つことができたとされています。その仏陀が悟りを開くことで得た様々な知恵や経験が教えとして広まり仏教となったとされています。

仏陀は、29歳で出家をして35歳で悟りを開かれたとされています。悟りを開くまでの6年間は、断食や呼吸を制限する修行など様々な肉体に苦痛を与え精神を鍛える修行をされたそうです。しかし、その修行の結果悟りを得るどころか衰弱してしまい、苦行を中断されたそうです。

苦行を中断し、息も絶え絶えで力尽きかけていたところをスジャータという女性に乳粥を施され息を吹き返したそうです。そして、スジャータから「琴の弦はきつく締めすぎると切れてしまうが、緩く締めると音が悪い。琴の弦は、適度に締めるのが望ましい」の歌を聴いた釈迦は、苦行が間違っていたことに気がつきます。

そのスジャータの詩で、苦行では悟れないことに気づき菩提樹の下で瞑想を行い自分の思考を整理することで悟りを開かれたとされています。

仏陀の教えの中に「苦楽中道(くらくちゅうどう)」という教えがあります。この教えでは、人は快と不快という2つの感覚に支配されていて、その支配によって人は物事を正しく認識することができず、その結果煩悩が発生し苦しんでいるとされています。

そして、煩悩を滅し苦を無くすためには快にも不快にも支配されないことが重要ですよと仏陀は説かれています。

中国の孔子の教えにも、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」という教えがでてきます。この教えは、「度が過ぎたものは、足りないものと同様によくない。不十分なのも困るが、過剰なものには弊害があり、物事にはほどよさが大切である。」という意味です。仏陀の中道の考えに近いものだと感じています。生まれた時代や場所も違う2人の偉大な宗教家が同じような教えを残していることに、個人的にですが私は神秘的なものを感じます。

そこから、弘法様の冒頭の「一体どこまで己を追い込めばいいのか」質問に対して、仏陀の教えの見解で回答させていただくと、自分を過度に傷つけるほど追い込んではいけず、かといって自分を怠けさせてはいけないということではないかと思います。

仮に、この考え方を一般の方ができるご宗派の修行にあてはめさせていただくと、自分の無理のない範囲で真言宗の戒律を意識して生活していただければ良いのではないかと思います。

長々と分かりにくい講釈めいた文書を書いてしまいすいませんでした。

2022年03月01日(火)
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