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しおやじんじゃ

塩屋神社のお参りの記録(1回目)
広島県佐伯区役所前駅

投稿日:2017年09月17日(日)
塩屋神社
祭神 猿田彦神
相殿 塩竈神

五日市町誌にある道空物語を要約すると
海老山の麓に湯蓋道空夫婦住み、厳島大明神を崇敬し奉り、ある時、市杵島沖に蓬莱浮く(蜃気楼)、金波の中を船で進み砂金を汲み入れる蓬莱を見ると、屋の傍に温湯湧き出し、富貴なり塩浜の長者となり、道空深く感激し、厳島明神の霊験だと、敬神の念いや厚く、客人社壇を再興し、市杵の島の大神を勧請し、厳島神社の摂社として塩竈の神を相殿に、猿田の彦を神祀る。
この地を湯葢と名付ける。

道空は新中納言平知盛の後という説と、忠臣源朝臣道生の子という説がある。

道空には道裕とよぶ子供がいた。 道裕は親の言葉に逆らう言動をしていた。
道空は死期に臨んで、心の中では海老山(カイロウヤマ)上に墓を建てて欲しかったが、道裕の言動を考慮したすえ「自分が死んだら墓は必ず津久根島に建ててくれ」と遺言した。
父の死後道裕は今まで自分は父の言に背いた行動ばかりした親不孝者であった。せめて父の残した遺言だけは守って不幸の償いともしようと思った。 そして遺言の通り津久根島に墓を建てた。
これより以後、親の言葉に逆らう者を「あまんじゃく」(天邪鬼)と呼ぶようになったという。
もう一つの説は
実は道空は死後津久根島に墓を建てて欲しいのだが、道裕の言動を察して逆さの言葉で、この宮のほとりにわしを葬れと言ったが、道裕は、何をおっしゃる父ちゃんよ、不幸続けたわしじゃとて、神を敬う父上の、誠をうけて成人し、父に劣らぬ敬神の、道は自然に備わりぬ、塩屋の貴い神域に、わしらの墓を建てるとは、げにも不敬の極みなり、考え直して下されと、泪ながらの子の言葉、臨終迫る道空は、天にも昇る心地して、嬉し涙にむせびつつ、よく言うてくれたわがせがれ、実はかくかくかようだと、実の心を打明けて、悦びながら果てにける。

湯葢道空の話の作者は
客人社壇に市杵島姫だから、市杵島姫は客人さんと認識されていたと思われます。
客人(マロト)とは、外人という感覚がない時の言葉で稀(マレ)な人のことだと思えるので、白人とのハーフではないかとおもわれ、その関係で猿田の彦を祭神にしていることから、猿田の彦も市杵島姫と同族と思われ、鼻の高い白人とのハーフと思えます。
“市杵の島の大神” とか “猿田の彦を神祀る” という書き方から
島=揣摩(しま)=未知が見える=未知が見える巫女
彦=王という意味で部族の王という意味と思われる。 
この様に古代の言葉と現代の言葉は変わってきていると思います。 例えば剣の数え方は一本二本ではなく、一握り二握りで数え、十握剣=十本の剣という意味と思える。
塩屋神社の本殿
塩屋神社社殿 側には竜宮神社
塩屋神社の建物その他
塩屋神社に併せ祭る湯葢道空社
塩屋神社の建物その他
”屋の傍に温湯湧き出し”の井戸でしょうか?

すてき

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