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2026年05月21日(木) 02時44分 byくし

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ご由緒
編集前
藤原秀郷公の生誕地と伝わる舞木城跡の横に建つ小さな稲荷神社。
「上野国神社明細帳」に以下の記載があるという。
群馬縣上野國邑樂郡舞木村字城下 無格社 稲荷神社
勧請された年は不明であるが、当社の稲荷神社はかつて舞木宮内亟(まいぎ くないじょう)の城跡に鎮座していたため、今でもこの社を「城下稲荷神社」と呼んでいる。なお、当時の溝(堀)の跡が今も残っている。
(AIにより現代訳)
――――――――――
【舞木城跡】
舞木城は、面積およそ三ヘクタール、土塁と溝渠をめぐらせた平城で、藤原秀郷が承平年間(九三二〜九三五)に築城したと伝えられ、その後享禄年間(一五二八〜一五三三)まで秀郷の子孫が居城していたという。  
また館林盛衰記には、享禄の頃 赤井照光が大袋城(現在の館林市羽附)から舞木城へ年始の道すがら子狐を助け、その狐の導きによって館林城(尾城)を築いたと記され、舞木と館林とのつながりを浮き彫りにしている。  
この地は明治四十二年に小学校の敷地となり、昭和四十四年には、小学校の移転により「たわら住宅団地」が造成され現在に至っている。  
(案内板より)
――――――――――
※生誕地だとすると、築城年は上記より遡ることになる。
編集後
藤原秀郷公の生誕地と伝わる舞木城跡の横に建つ小さな稲荷神社。
「上野国神社明細帳」に以下の記載があるという。
群馬縣上野國邑樂郡舞木村字城下 無格社 稲荷神社
勧請された年は不明であるが、当社の稲荷神社はかつて舞木宮内亟(まいぎ くないじょう)の城跡に鎮座していたため、今でもこの社を「城下稲荷神社」と呼んでいる。なお、当時の溝(堀)の跡が今も残っている。
(AIにより現代訳)
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【舞木城跡】
舞木城は、面積およそ三ヘクタール、土塁と溝渠をめぐらせた平城で、藤原秀郷が承平年間(九三二〜九三五)に築城したと伝えられ、その後享禄年間(一五二八〜一五三三)まで秀郷の子孫が居城していたという。  
また館林盛衰記には、享禄の頃 赤井照光が大袋城(現在の館林市羽附)から舞木城へ年始の道すがら子狐を助け、その狐の導きによって館林城(尾城)を築いたと記され、舞木と館林とのつながりを浮き彫りにしている。  
この地は明治四十二年に小学校の敷地となり、昭和四十四年には、小学校の移転により「たわら住宅団地」が造成され現在に至っている。  
(案内板より)
※生誕地だとすると、築城年は上記より遡ることになる。
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【千代田町に伝わる藤原秀郷伝承あれこれ】
・生誕地については舞木ではなく東隣りの赤岩だとも伝わる
・藤原秀郷といえば「三上山の百足退治」が有名だが、群馬・栃木には「赤城山の百足退治」の伝承も点在している。
これは日光二荒山の神と赤城山の神が、それぞれ蛇と百足を繰り出して戦ったという「神戦譚」で、日光の神を助けて勝利に導いた猿丸太夫が藤原秀郷に結びつけられたものらしい。
・そのため、赤城の百足を倒した藤原秀郷の生まれ里である舞木の人は、赤城山に行ってはいけない、行くと変事が起こるという伝承が伝わっている。