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2026年03月29日(日) 12時00分 byくし
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臨済宗
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この地を中心に、北は大根村、南は寺中・諏訪原までの一帯を、古くは上野国邑楽郡佐貫荘片岡村と呼びました。 平安時代の末、板東平氏 平国繁が入部し片岡氏を名乗りました。二代経繁は平清盛に仕えていましたが、文治元年(1185年) 平家が滅亡すると土佐国(高知県)に渡って黒岩城主となりました。 経繁は建久五年(1194年) 故郷の片岡から妻子を呼び寄せました。しかし長男経俊と次男経政は亡き母の供養のために片岡に残り、三男経氏と二人の女の子が土佐へと渡りました。経氏は父の家督を継いで、土佐片岡氏の二代となり子孫が繁栄します。 鎌倉時代中期の文永二年(1265年) 新田一族の大島景継が中野に入部して中野城主となりました。この城下町作りをした時、片岡のほとんどの住民は元宿に移住させられました。 元弘元年(1331年) 夢窓疎石(夢窓国師)は、当地 久保山に慶湫寺を創建しました。 その後三年間、疎石はこの寺に居たといわれています。 その間、片岡氏が疎石をよく援助したので、疎石が上洛してからも弟子を下向させて寺を継がせました。 その後、慶湫寺は寛永元年(1624年) 中野間ノ田に移転再興して永明寺となりました。 戦国時代以降の片岡氏については明らかではありません。現在は南北に延びる土塁が往時を忍ばせてくれます。 (現地案内板より 一部編集)
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夢窓疎石が創建し、永明寺の前身となった慶湫寺の跡地。 平安末期~戦国時代までの片岡城跡でもあり、現在は二本の土塁のみ残る。
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元弘元年(1331年)
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夢窓疎石