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2026年03月25日(水) 17時39分 byくし

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通称
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篠塚城跡
ご由緒
編集前
新田義貞の忠臣、新田四天王の筆頭 篠塚伊賀守重広の居城である篠塚城の守護神として建てられたという神社。
神社自体の沿革は見つからなかったので、篠塚城の歴史を記す。
※篠塚伊賀守重広自身に関しては、霊廟のある大信寺のHPが詳しいのでリンクを参照してください。
――――――――――――
【篠塚城の歴史】
元久二年(1205)6月23日、鎌倉幕府御家人 畠山重忠及び重秀父子が、北条義時率いる大軍に襲われ戦死。
菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町)にいた家人の宮野友右衛門左近は、重秀の子とその母(足立遠元の子)を連れて碑文谷(東京都目黒区)に逃れた。
暫くして母子だけが母の実家である桶川の足立遠元屋敷に落ち着き、さらに承元二年(1208)同族の上野国守護である安達景盛に招かれて佐貫庄篠塚に移住。健保六年(1218)に元服して篠塚重興と称し、承久二年(1220)17歳で篠塚領主となる。

篠塚氏4代の嫡孫にして5代目篠塚城主が、新田義貞四天王として名を馳せた篠塚伊賀守重広である。
篠塚城は総面積3.5ヘクタールと広大であり、伊賀守の時には内濠と外濠とに囲まれた二重濠形式となった。
現在は土壕の一部と八幡神社(戦後現在地に移転)、毘沙門堂(当時の大手門付近)が残っている。
編集後
新田義貞の忠臣、新田四天王の筆頭 篠塚伊賀守重広の居城である篠塚城の守護神として建てられたという神社。
神社自体の沿革は見つからなかったので、篠塚城の歴史を記す。
※篠塚伊賀守重広自身に関しては、霊廟のある大信寺のHPが詳しいのでリンクを参照してください。
――――――――――――
【篠塚城の歴史】
元久二年(1205)6月23日、鎌倉幕府御家人 畠山重忠及び重秀父子が、北条義時率いる大軍に襲われ戦死。
菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町)にいた家人の宮野友右衛門左近は、重秀の子とその母(足立遠元の子)を連れて碑文谷(東京都目黒区)に逃れた。
暫くして母子だけが母の実家である桶川の足立遠元屋敷に落ち着き、さらに承元二年(1208)同族の上野国守護である安達景盛に招かれて佐貫庄篠塚に移住。健保六年(1218)に元服して篠塚重興と称し、承久二年(1220)17歳で篠塚領主となる。

篠塚氏4代の嫡孫にして5代目篠塚城主が、新田義貞四天王として名を馳せた篠塚伊賀守重広である。
篠塚城は総面積3.5ヘクタールと広大であり、伊賀守の時には内濠と外濠とに囲まれた二重濠形式となった。
建武三年(1336年)3月、北朝方の上杉憲顕に攻略され落城となる。
現在は土壕の一部と八幡神社(戦後現在地に移転)、毘沙門堂(当時の大手門付近)が残っている。