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2026年05月04日(月) 05時15分 byくし
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前原浅間神社は新田義貞の忠臣中野藤内左衛門景春ゆかりの神社です。 中野氏のおこりは文永二年(1265)新田一族の大島次郎景継が佐貫庄中野郷に塁を築き、中野氏を称したのに始まります。景継は中野城を整備するとともに、新田大島の八幡山から八幡宮を勧請して鎮守とし片岡(前原、蛭沼、篠塚北部、藤川東部)の住民を移して元宿とし、箱田(光善寺)から移住させて上宿、下宿とするなど郭づくりと城下集落の形成を進めました。 また景継には男子が生れなかったので、駿河国富士山本宮浅間大神に祈願をおこしましたところ、弘安十年満願の日に男子が出生しました。そこで景継は二人の家臣を富士山に登らせ、中野城の西南に当る前原にその分霊を祀りました。これが前原浅間神社です。 中野景継の嫡男として生れた景春は、新田方の武将として活躍し、延元三年(1338)新田義貞が燈明寺畷において戦死すると、景継も殉死しました。景春五十二歳、老練知略の武将でした。 ―――――――――――――― 【阿夫利様祭り】 浅間神社前の前原公民館で行われる、邑楽町周辺で広く信仰された大山阿夫利講の、現代まで残った五ヶ所の祭りの一つ。 お盆を控え、7月25日に先祖の霊をお迎えする灯篭を設置する。
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前原浅間神社は新田義貞の忠臣中野藤内左衛門景春ゆかりの神社です。 中野氏のおこりは文永二年(1265)新田一族の大島次郎景継が佐貫庄中野郷に塁を築き、中野氏を称したのに始まります。景継は中野城を整備するとともに、新田大島の八幡山から八幡宮を勧請して鎮守とし片岡(前原、蛭沼、篠塚北部、藤川東部)の住民を移して元宿とし、箱田(光善寺)から移住させて上宿、下宿とするなど郭づくりと城下集落の形成を進めました。 また景継には男子が生れなかったので、駿河国富士山本宮浅間大神に祈願をおこしましたところ、弘安十年満願の日に男子が出生しました。そこで景継は二人の家臣を富士山に登らせ、中野城の西南に当る前原にその分霊を祀りました。これが前原浅間神社です。 中野景継の嫡男として生れた景春は、新田方の武将として活躍し、延元三年(1338)新田義貞が燈明寺畷において戦死すると、景継も殉死しました。景春五十二歳、老練知略の武将でした。 ―――――――――― 【猿楽】 中野城主景継には跡継ぎとなる子がおらず、日頃から崇拝していた駿河国の富士山本宮である浅間大神に、弘安五年(1282)6月頃から子授け祈願を始めた。 それから5年後の弘安十年(1287)6月13日、城のやや南西の未申の方向からにわかに歌舞音曲が聞こえてきた。不思議に思った景継はさっそく家来に見てくるように命じた 家来が騒ぎの聞こえた所に行ってみると、なんと猿たちが集まって手拍子を取りながら、賑やかに歌や躍りをしているではないか。家来はさっそく城に帰りその様子を主君に報告した。 するとまもなく奥方に男の子が生まれた。景継は「これは猿が前祝いをしてくれたに違いない」と喜び、その地を「猿楽」と名付けた。この地は浅間神社の南にある邑楽中学校南西の山林内に今も残っているという。 鎌倉・室町時代の頃、この付近には猿楽師がおり、これらの者は当浅間神社または浅間寺(現存せず、浅間神社のもと別当寺?)あるいは善正寺(神光寺の前身)の雇い猿楽師ではなかったかと云われている (広報おうらより引用) ―――――――――― 【阿夫利様祭り】 浅間神社前の前原公民館で行われる、邑楽町周辺で広く信仰された大山阿夫利講の、現代まで残った五ヶ所の祭りの一つ。 お盆を控え、7月25日に先祖の霊をお迎えする灯篭を設置する。