上野国神明帳によると、当社は承和年中奥州安部家の臣、蜷川氏が当地に居住の際勧請せしものなるが、古老の伝説によると、その後昌泰三年奥州二ノ宮より皇御孫尊・木花開耶姫命二神を相殿に奉斎し、伊産済宮と称し、安産守護の神となすとあり、遠近の人々は勿論、武人等も崇敬する者多く、八幡太郎義家は応徳年中、即ち後3年の役の折、安全祈願をせし所、無事に安産せしに依り、帰館に際し、奥州本社より杉の苗木を持ち来たり植えしものが御神木として昭和十二年まで存せり。
奥州御本社とも言い、二ノ宮とも言うは、福島県岩城国に鎮座坐す。元国幣中社、伊佐須美神社に倣い、当然当社も明治初年までは伊産済宮と称し、以後は伊佐須美神社と称せしが、後監督官庁に届出の際、誤って須々美神社と記し、今日に至る。
明治四十年、神社合併行はれし際、当神社も氏子少なく且つ、社有財産無きため、当然その範疇に入る筈であったがこれは祖先に対し、また子孫に対しても誠に忍び難い儀と、一同協力一致、神社護持の誓約書を作り署名調印善処す。
大正十三年秋、境内社、五十猛神社を改築し、出雲神社並びに美保神社より御分霊を迎え出雲神社と称し、恵比寿講を開催し、その浄財を蓄え、本殿改築の資金に充つることになりぬ。
久しく昭和二十八年、大戦後の人心混乱の為、氏子総代の交替あり。また宗教法人に依り、登録せし氏子は百三十人なり。 かくて、本殿一間流造は、元禄十一年、大阿闍梨権大僧都法印七代目良俊が、棟梁岩松佐兵衛助をして造営せし由緒あるものにて、星霜幾百年の腐朽もようやく加わり、その改築も多年の懸案であったが、ここに僅少の氏子を以て、よく協力一致、時勢の変遷に対処し、しかも予定の年数をはやめて、今日御造営を完了したことは、まことに時局がら、神社神道をこうようし特筆文書すべきことがらというべきである。
なお、境内社、出雲神社は、神祇を敬い、祖先を崇ふは、日本国民の淳風美俗にして、国体の精華なり、而て我が両毛敬神団は、常に此美風を宣揚せんが為、年々神社参拝を怠らざる所、大正十三年甲子歳、更に甲子会を興し、同年二月、会員七十三名を相携えて、参拝の途につき、まづ、伊勢大廟を拝し、次に出雲大社及び美保神社を拝せり、因りて、此の事業を永遠に伝えんと欲し、出雲大社及び美保神社の分霊を上毛太田町に勧請し、社殿を創建して、出雲神社と称し、当町内浜町旧護国寺の恵比寿大黒神を奉遷し合わせてこれをまつれり。
抑出雲大社は大国主神をまつり、美保神社は事代主神をまつる此の二柱の御神は忝けなくも福神にましまして萬民の渇仰する所なり而て毎年福神祭を行ひ、福運を授け給ふ。惟ふに大国主神は太古草昧の際、国土を天孫に奉献して、天業を翼賛し、其御子事代主神は御父神を輔けて、力を王事に尽し、明かに君民の分義を画し、範を後世に垂れ給へり。日本国民たるもの宏遠なる神慮を畏み、各臣民の本分を守り共に敬神崇祖の美風を持し、倍々国家の隆昌を期せざる可らず。而て、又た大国主神は世に縁結びの神と称せられ、万民の崇敬惜かざる所にして、神前結婚の慣例あり。夫れ婚姻は人生の大礼にして、一家の繁栄国家の隆昌一に之につながる故に浮華を戒め、軽挙を避け婚儀は必らず神前に於て行はんことを望まざるを得ず。夫婦和合し、子々孫々必らず広大なる神恩に浴す可きなり。因りて創建の次第を叙し不朽に伝ふ。 |