からいじんじゃ/ほのいかづちじんじゃ
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火雷神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年07月25日(日)
参拝:2021年5月吉日
火雷神社(からい~/ほのいかづち~)は、群馬県佐波郡玉村町にある神社。式内社、上野国八之宮。旧社格は郷社。主祭神は火雷神(ほのいかづちのかみ)。利根川右岸に位置し、利根川左岸にある倭文神社(しどり~;式内社、上野国九之宮、上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称される(なお、中世までは地続き)。
社伝によると、創建は第10代崇神天皇元年(紀元前97年)で、第12代景行天皇の代に東国に派遣された御諸別王(崇神天皇四世孫)も当社を祭祀したという。当社の奉斎氏族は、壬申の乱で功をなした佐味氏(佐味君)とのこと。
国史の初見は『日本後記』で、平安時代初期の796年に賀茂神社、美和神社、火雷神社を官社と為すと記載されている。この3神はいずれも大和地方からの勧請と考えられている(賀茂神社は高鴨神社、美和神社は大神神社、火雷神社は葛木坐火雷神社)。平安時代中期の927年には『延喜式神名帳』に「上野国那波郡 火雷神社 小」と記載されている。『上野国神名帳』などの古文書によると、上野国において8番目から10番目の序列の神社であったらしい。
中世においては那波氏や新田氏から崇敬され栄えたが、那波氏の衰退とともに零落した。近世においては天神信仰の浸透により「火雷天神社」と称された。明治時代に入り、郷社に列した。
当社は、JR両毛線・伊勢崎駅の南西6kmの利根川の南岸にある。境内はけっこう広いが、周辺は住宅地で、一の鳥居から二の鳥居までの間は参道だけがかろうじて社地として残っている感じ。
今回は、上野国の式内社ということで参拝することに。参拝時は週末の午後で、他に参拝者はいなかった。
社伝によると、創建は第10代崇神天皇元年(紀元前97年)で、第12代景行天皇の代に東国に派遣された御諸別王(崇神天皇四世孫)も当社を祭祀したという。当社の奉斎氏族は、壬申の乱で功をなした佐味氏(佐味君)とのこと。
国史の初見は『日本後記』で、平安時代初期の796年に賀茂神社、美和神社、火雷神社を官社と為すと記載されている。この3神はいずれも大和地方からの勧請と考えられている(賀茂神社は高鴨神社、美和神社は大神神社、火雷神社は葛木坐火雷神社)。平安時代中期の927年には『延喜式神名帳』に「上野国那波郡 火雷神社 小」と記載されている。『上野国神名帳』などの古文書によると、上野国において8番目から10番目の序列の神社であったらしい。
中世においては那波氏や新田氏から崇敬され栄えたが、那波氏の衰退とともに零落した。近世においては天神信仰の浸透により「火雷天神社」と称された。明治時代に入り、郷社に列した。
当社は、JR両毛線・伊勢崎駅の南西6kmの利根川の南岸にある。境内はけっこう広いが、周辺は住宅地で、一の鳥居から二の鳥居までの間は参道だけがかろうじて社地として残っている感じ。
今回は、上野国の式内社ということで参拝することに。参拝時は週末の午後で、他に参拝者はいなかった。
境内南端の入口にある<社号標>。
参道進んで少し離れたところにある<鳥居>。
さらに参道進んで右手にある<手水舎>。
拝殿に向くと、参道上に松の木が架かる。
参道両側の燈籠。
<拝殿>全景。参道両側の<狛犬>は新しそう。
<拝殿>正面。朱色をベースに彫刻には鮮やかな配色。
拝殿裏の<本殿>も、朱色をベースに鮮やかな色遣いで華やか。江戸時代前期1645年の造営。三間社流造。
社殿左側の石製小祠はコンクリ土台で整然と並んでいる。
拝殿左側の<富士塚>。
富士塚の裏手、境内の西端には児童公園が。
社殿左側の境内社。
拝殿にむかって左手にある<舞殿>。
舞殿の左手にある<社務所>。
御朱印は<鳥居>近くにある宮司さん宅で拝受した。その際にいただいた<宝来鈴>。かわいらしい見た目に、良い音色~♪
すてき
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惣一郎1269投稿
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