しどりじんじゃ
倭文神社のお参りの記録(1回目)
利根川左岸に位置し、利根川右岸にある火雷神社(式内社、上野国八之宮、下之宮)に対して「上之宮(かみのみや)」と称される。
創建は不詳。社伝によると、第11代垂仁天皇3年(紀元後27年)の創建。平絹を織る部民・倭文部(しどりべ)が当地に移住して天羽槌雄命を祀ったという説がある。国史の初見は、『日本三大実録』859年に祭神「委文神」が官社に列し、神階が昇叙されたことが記載されている。平安時代中期の927年には『延喜式神名帳』に「上野国那波郡 倭文神社 小」と記載されている。『上野国神名帳』などの古文書によると、上野国において9番目から11番目の序列の神社であったらしい。
戦国時代の兵火で社殿をを焼失、社家も離散したが、江戸時代に入り慈眼寺が別当になり朱印地10石を与えられた。社殿は1727年に再興したが、1866年に焼失。明治時代に入り近代社格制度で郷社に列し、1925年には神饌幣帛料供進社に指定された。
当社は、JR両毛線・伊勢崎駅の南西5kmの利根川の北岸にある。広々と敷いた平坦な土地(畑や公園・広場など)に、木々がモリモリの神社がポツンと存在する感じ。
今回は、上野国の式内社ということで参拝することに。参拝時は週末の午後で、他に参拝者はいなかった。
すてき
みんなのコメント(4件)
こんにちは。
伯耆國一之宮は倭文(しとり)神社さんですけど「群馬にあんの!?」と思って驚き、解説文をじっくり読ませてもらいました。
「倭文部」が祀っていた機織・養蚕の神であり、さらに関東の移住により広まったということは秦氏と似たような渡来人・帰化人系の技術者一族の氏神だったかもしれませんね。
古代史はわからないことだらけで、その分面白いですし、勉強になります。詳しい解説ありがとうございました。
Takashi Shimojimaさん、コメントありがとうございます! m(_ _"m)
私も伯耆國一之宮・倭文神社の方を先に認識したので、上野国式内社を調査していた時に「なんでかな?」と思って少し調べました。
上野国一之宮の貫前神社も、当社と同様、もともと生地や機織の技術を持った渡来人ゆかりの神社らしいです。上野国二之宮・赤城神社の由緒書きにそう書いてありました。
ちなみに、関東には当社以外にも<倭文神社>という名の神社がいくつかあって、主に富士山周辺(伊豆・甲府周辺を含む)にあるようです。
おっしゃる通り、創建の由緒を調べると分からないことだらけですが、寄り道しながら調べまくると、一定の納得感と満足感が湧いてきて、なかなか楽しいですよね! (o^―^o)ニコ
なるほど!
貫前神社さんも機織り系の渡来人にゆかりのがあるんですね。
近くに富岡製糸場ができたのには、その時代からの養蚕、生糸生産・加工の技術があったことと関係しているのでしょうかね?
「倭文」は超難読漢字で鳥取にしかないと思いこんでいたのですが、領域としてみれば、ある地域内にはいくつもちゃんと残ってるんですね。
Shimojimaさんのおっしゃる通り、貫前神社の祭神は経津主神(男神)と姫大神(女神)で、姫大神は機織りの神様、養蚕の神様とされています。
日本の文明が開化し始めた大和時代や飛鳥時代だと、機織りや養蚕は最先端のハイテク技術だったでしょうから、儲かった分は適切に奉納されてきたんでしょうね。
自分も、難読漢字や読み方が変わった神社に出会うと、なんでそうなったのか歴史や経緯を知りたくて、探求心がメラメラしてワクワクします! (^▽^)/
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惣一郎1269投稿
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