寛政11年(1799年)広沢村の加茂神社社列書の中に、加茂神社移しの神が近村7ヵ所あり、その中に浜の京もあるので、分霊したことがわかる。
本殿、拝殿、社務所があり、境内の小さな石祠には神明宮、雷神社、八坂神社、菅原神社、産泰神社 阿夫利神社、機神社、寒神社などがある。
八坂神社には社殿があり、石の鳥居は昭和12年7月とある。
境内に 新井亀太郎中将の記念碑あり、達筆で万古高風の碑文は、荒木貞夫大将の書である。裏面には国文学者の遠藤隆吉氏の選文がある。
寛政3年 天満宮石祠と太鼓橋の一部があるがこれは旧天神台にあったものを洪水のためにこの地に移したものである。
【振り神天神】
上記の天満宮石祠に纏わる伝承。
昔のこと、現在の桐生市境野町七丁目の桐生川と渡良瀬川とが合流する辺りに、鬱蒼と樹々を生い繁らせた暗くて深い森があった。 ここは迷い込んだら最後、絶対に外に出られないと言われ、里人たちも近寄ることを嫌ったほどだった。
この森の中に、いつの頃からか一人の美しい娘と、数人の召使とが生活するようになった。世を忍ぶかのようにヒッソリと暮らす姫を里人は「天神様の妹君」と噂しながら、そっと見守り続けたのだった。
姫が森に住みつかれて二十年の歳月がまたたくうちに流れ去った。 姫に従っていた召使たちも、老いて一人亡くなり、二人亡くなたりして 何時の間にか、姫はひとりぼっちになってしまっていた。 この間、姫の兄君とおぼしき人が何度か訪れて、森から姫を連れ出そうと試みはしたが、あまりにも深い森のために、それも叶わなかった。 そして若くて美しかった姫も、老いて真っ白な髪をたくわえる人となっ ていた。
ある日の事、寄る年なみに余命いくばくもない事を感じとったのか、姫は、人々の立ち入ることを拒み続けてきた森の中へ、自ら多くの里人を招きいれて、こう伝えた。
「私は生きながらにして墓穴に入ります。この鈴は私の宝。これを命の あるかぎり振り続けるつもりです。鈴の音が絶えた時が、私の生命の灯 の消えたとき。その時は、ぜひ神として、私をこの地にまつってくださ い。」と・・・
墓穴に入り、鈴を振り続けて生命を絶った姫を、里人は遺言通りに手厚 く葬り「振り髪天神」として祭った。
姫は逝って幾星霜・・・世は昭和二十三年の夏を迎えていた。
リン リン リン リン リン リン リン リン リン 大雨の毎日、天神台の方角から雨音にまじって鈴の音が響いていた。
それもすでに五日間もである。一向に衰えを見せない雨脚に 「渡良瀬川が大増水だぞう」 「桐生川も危険水位を越えたぞう」 と言った知らせばかりが、次々にもたらされた。 土地の低い境野地域だけに、刻々と増す水かさに、人々は神経ばかりをすり減らしていった。こんな時に響く鈴の音は、里人の不安を一層かきたてるばかりだった。
リン リン リン リン リン リン リン リン リン 六日目になっても鈴の音は止まらず、雨も相変わらず激しく地面を叩き 続ける。そして七日目、鈴の音がピタッと止んだ。 「おう鈴の音が止んだぞ」 人々が「オヤッ」と首をかしげた時だった。 「渡良瀬川の堤防が切れたあ」 「大水だぞう」 と言う悲鳴にも似た声が起こった。
一週間もの長雨で、増えた濁流を抱え切れなくなった堤防の一角が、つ いに崩れてしまったのである。 堤防を突き破った濁流が、渦を巻いて押し寄せてきた。そしてあたりの 田畑を呑みこむやアッと言うまに天神台地や森林をもその餌食にしてしまった。 数日後、水がようやく引いた。
しかし、あたり一帯は先日までの美しい 面影を全く失い、大小様々な瓦れきと赤土ばかりを露出させて、災害の恐ろしさをまざまざと見せつけていた。 「入り込んだら最後、もとには戻れない」と里人も近づかなかったあの天神台さえも、あとかたもなく消えていた。
ただ、幸いなことに、このような大水害だったにもかかわらず、人命の被害は思ったよりも少なかった。雨中に鳴り響いたあの鈴の音が、里人の心を何時になく用心深くさせていたからだった。 しばらくして、あの瓦れきの下から振り髪天神石宮が発見された。里人はそれを聞くと早速掘り起こして、水害の恐れの少ない浜の京の加茂神社の境内に運び安置した。不幸中の幸いをもたらした振り髪天神への里人の感謝の現われだったと言える。 振り髪天神のほこらは、加茂神社の境内で今も人々にそっと昔の出来事を語りかけている。