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聖眼寺ではいただけません
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聖眼寺のお参りの記録(1回目)
群馬県丸山下駅

投稿日:2019年10月02日(水)
参拝:2019年9月吉日
桐生市の西に位置する聖眼寺は、大日如来を本尊とし、真言宗古義高野山派である。山内は山門より正面に本堂、左に薬師堂、右が摩多羅神王堂と庫裡となっている。墓地は本堂の裏に位置するため、正面からは見えない。境内地には高野槙はじめ、推定樹齢200年とされる、桐生市指定保存樹のタラヨウ、推定樹令100年の楓等々古木が生い茂っている。
 当山聖眼寺は、大永年間(1521~1527年)には寺として、今の場所ではなく、本宿(元宿)と堤村(堤町)の中間御坊木という場所にあったといわれている。今でも石塔や五輪塔の出土する場所があるらしい。そこが宗祖弘法大師の説く、真言密教根本道場として、寺中に六坊が置かれ、桐生城主より寺領八十石を頂戴、寺運は大いに栄えていた。元亀2年(1571年)から桐生氏と由良氏との間で、渡良瀬川の水論に依る合戦となり、桐生氏敗北、聖眼寺もその兵火に依り全山焼失。
 後に、弘算法印の求めに応じ、新居氏は先祖新居豊前の屋敷内、南方一町七反の馬場を再建の地として寺に寄進した。天正11年(1583年)に弘算法印は高野山に登って大葉院末寺となりその上に血脈法流の伝授を受けて開山となった。天正19年(1591年)家康より御朱印三十五石を戴いた。
 慶長13年(1608年)新居家先祖建立の観音堂を再建、本尊千手観音菩薩を安置し、新居一族の先祖供養を行う。 正保年間(1644~1648年)6世承算代に火災で聖眼寺は焼失し、御朱印・過去帳・書籍等まで灰燼する。そこで公儀へ届出をする時に承算法印が病気になり、法縁の兄弟である新田郡村田の宝蔵寺に依頼して届出を頼んだ処、御朱印の書替は無事済んだものの、結果として、十七石五斗を配慮された。然しその恩義で、本寺は止むなく宝蔵寺の末寺となるが、新居家は立腹、宝蔵寺より末寺としての負担金を課さないという一札を取って話は落着する。この事件に依り開基同前の新居家は聖眼寺を離檀する。
 同じ大類出身の10世智叡岡田氏は8世宥清の一族である。満相寺に入り清誉より学問を受け、後に当山にて宥清から仏典を学んだ。生まれつき天性聡明なうえ、目耳に触れるもの全てを記憶したという。教相に於いては「倶舎論」や「唯識論」などを講釈し、事相に於いても祈祷の道に深く、又地宗の学問にも通じていた。弟子は8人の多きに及び、それぞれ一ヶ寺を持った。
 明治22年、桐生一前橋(JR両毛線)間の鉄道開通に当たり、桐生城当時、前橋方面からの人の往来を監視する場所でもあった聖眼寺裏丸山が分断された。同35年、桐生前橋線道路赤岩橋が開通した。それ以前、桐生から前橋へは、本宿聖眼寺前を通り、渡良瀬川は相生町の赤岩間を舟か浅瀬を徒歩で渡らなければならない重要な場所であった。
 昭和39年、当山40世龍堂和尚に依り現本堂が再建されている。
聖眼寺の本殿
聖眼寺の建物その他

すてき

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