きりゅうてんまんぐう
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桐生天満宮ではいただけません
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桐生天満宮のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年10月20日(水)
参拝:2020年10月吉日
桐生天満宮(きりゅう~)は、群馬県桐生市にある神社。祭神は、天穂日命、菅原道真公。桐生総鎮守で、現在の桐生市は当社を中心に形成されている。また桐生市には学校が多いことから受験シーズンには参拝者が多いとのこと。
社伝によると、景行天皇の御代に天穂日命を祀って創建。当初は「礒部明神」と称した。南北朝時代に桐生綱元が現在位置に移し、京都の北野天満宮の分霊を合祀して菅原道真公を祀る天満宮となった。その際、社名を「桐生天満宮」と改称するとともに、桐生領54ヶ村の総鎮守に定められた。戦国時代に徳川家康が東征の折、徳川家の祈願所として朱印地を下賜し、1600年の関ケ原合戦の時には軍旗に用いる旗絹を当宮神前に供えて戦勝祈願した。現在の社殿は1789年に造営された。
当社は、JR両毛線・桐生駅の北東2km弱の平地、市街地にある。市街地の中心を通る<本町通り>の北の突き当りが当社になっている。境内南西端の境内入口の鳥居をくぐると、参道がしばらく続き、突き当りには古く威厳のある社殿がある。社殿周りはこぢんまりとしているが、絵馬の多さなどから参拝者の多さからくる活気が感じられる。
今回は、当社の宮司さん宅で上野国式内社の美和神社の御朱印を拝受できることから参拝することに。参拝時は週末の午後、地元に根付いた神社のようで、地元民と思しき方々をぱらぱら見かけた。
社伝によると、景行天皇の御代に天穂日命を祀って創建。当初は「礒部明神」と称した。南北朝時代に桐生綱元が現在位置に移し、京都の北野天満宮の分霊を合祀して菅原道真公を祀る天満宮となった。その際、社名を「桐生天満宮」と改称するとともに、桐生領54ヶ村の総鎮守に定められた。戦国時代に徳川家康が東征の折、徳川家の祈願所として朱印地を下賜し、1600年の関ケ原合戦の時には軍旗に用いる旗絹を当宮神前に供えて戦勝祈願した。現在の社殿は1789年に造営された。
当社は、JR両毛線・桐生駅の北東2km弱の平地、市街地にある。市街地の中心を通る<本町通り>の北の突き当りが当社になっている。境内南西端の境内入口の鳥居をくぐると、参道がしばらく続き、突き当りには古く威厳のある社殿がある。社殿周りはこぢんまりとしているが、絵馬の多さなどから参拝者の多さからくる活気が感じられる。
今回は、当社の宮司さん宅で上野国式内社の美和神社の御朱印を拝受できることから参拝することに。参拝時は週末の午後、地元に根付いた神社のようで、地元民と思しき方々をぱらぱら見かけた。
境内南端入口にある<一の鳥居>と<社号標>。境内は街のメインストリートに沿っていて、南北に細長い。
鳥居をくぐったところ。参道の両側には、ほど良い本数の大木が立っている。
やがて立派な燈籠と<二の鳥居>が見えてくる。
二の鳥居の右側にある大きな境内社<機神々社>。社号標には<桐生最古織物市場発祥地>のサブタイトルが刻まれている。
参道をまっすぐ進むと、参道上に<神橋>が現れる。
斜めから見ると、こんな感じ。石製の立派な神橋の後ろには神門、社殿が見える。古社らしい、いい雰囲気。
参道右側にある大きな<手水舎>。
参道の左側にある<財福稲荷神社>。
参道の左手には、大きな境内社<宝船神社>。建物は平成の建立。
宝船神社の右隣にある<神楽殿>。黒い躯体に彫刻に彩色が施された綺麗な神楽殿。
いよいよ<神門>をくぐる。
<拝殿>全景。大きく重厚感がある。扁額には縦書きで<八幡宮>。手前左側の建物は授与所。
拝殿手前の<なで牛>。
拝殿後ろの<本殿>と、本殿・拝殿を繋ぐ<石の間>には、繊細な彫刻が施されている。彩色が褪せた感じも味わい深い。
社殿近くにある、鳥居、燈籠付きの境内社<神明宮・直日神社>。
社殿の裏手にある一間社流造の境内社。右側の<春日社>は戦国時代中(1600年前後)の建立で、桐生市最古の建造物とのこと。
社殿の裏手にある石製小祠群。
二の鳥居の脇にある宮司さん宅。御朱印はこちら。
すてき
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惣一郎1269投稿
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