おぼりじんじゃ
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小祝神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年06月17日(木)
参拝:2021年5月吉日
小祝神社(おぼり~)は、群馬県高崎市にある神社。式内社、上野国七之宮で、旧社格は郷社。江戸時代の名称は「小祝大明神」祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)。
創建は不詳。付近には三島塚古墳(4世紀から5世紀の円墳)があり、境内からも縄文時代前期の土器片が出土したことから、古くより当地に鎮座していたと推測されている。国史では平安時代880年に「小祝神」の神階昇叙の記載がある。927年の延喜式神名帳では「上野国片岡郡 小祝神社(振り仮名は「おはふり」)小」と記載されている。『上野国神名帳』などの古文書によると、上野国において4番目から7番目の序列の神社であったらしい。
江戸時代中期の1716年に宗源宣旨で神階が最高位の正一位を授けられている。翌1717年に高崎城主・間部詮房により現在の本殿を造営。なお、当寺の別当寺は、現在も隣接している石昌寺。明治時代に入り、1872年には近代社格制度の郷社に列し、1909年には神饌幣帛料供進社に定められた。
当社は、JR高崎線・北陸新幹線・高崎駅の南西2kmの住宅街の中にある。敷地に幼稚園を併設しているためか、旧郷社にして社殿はそれなりに大きいが、境内は広くない。
今回は、上野国の式内社であることから参拝することに。参拝時は週末の午前中、自分以外に参拝者はいなかった。
創建は不詳。付近には三島塚古墳(4世紀から5世紀の円墳)があり、境内からも縄文時代前期の土器片が出土したことから、古くより当地に鎮座していたと推測されている。国史では平安時代880年に「小祝神」の神階昇叙の記載がある。927年の延喜式神名帳では「上野国片岡郡 小祝神社(振り仮名は「おはふり」)小」と記載されている。『上野国神名帳』などの古文書によると、上野国において4番目から7番目の序列の神社であったらしい。
江戸時代中期の1716年に宗源宣旨で神階が最高位の正一位を授けられている。翌1717年に高崎城主・間部詮房により現在の本殿を造営。なお、当寺の別当寺は、現在も隣接している石昌寺。明治時代に入り、1872年には近代社格制度の郷社に列し、1909年には神饌幣帛料供進社に定められた。
当社は、JR高崎線・北陸新幹線・高崎駅の南西2kmの住宅街の中にある。敷地に幼稚園を併設しているためか、旧郷社にして社殿はそれなりに大きいが、境内は広くない。
今回は、上野国の式内社であることから参拝することに。参拝時は週末の午前中、自分以外に参拝者はいなかった。
境内全景。鳥居、社殿は南向きに建っている。<社号標>は2種類、新しいものが敷地外、古いものが敷地内に立っている。
境内入口の<鳥居>。
鳥居をくぐったところ。境内奥の西側は保育園になっている。
参道をさらに進む。
一段上がると右側に<手水舎>。
境内はさらにもう一段上がる。
<拝殿>全景。社殿は江戸時代中期の1720年に竣工。褪せた薄緑いろの銅板葺の屋根と、ビビッドな朱色のコントラストが美しい。
<拝殿>正面。扁額には<正一位 小祝大明神>の文字。正面の梁などには、彫刻が彩色されている。
<社殿>全景。拝殿、本殿の大きさのバランスが良い。
本殿裏の色彩豊かな彫刻。彫刻はパネルをはめ込む形になっており、群馬県内最古とのこと。本殿は三間社入母屋造。
本殿の後ろ側、透塀の中に、おそらく昔の御神木の切株。
社殿の右側に石碑群。<地神>、<猿田彦大神>などの文字が見える。
拝殿から見て左前にある<神楽殿>。
入口の鳥居付近に戻って、境内東側に建つ<社務所・授与所>。御朱印はこちら。なお参拝時、<社頭対応時間、10:00~15:00>との張り紙がされていた。また、授与所には2種類の御朱印のサンプルがあって、<本日(10:00~日没)はこの二つの書置き>との記載があった。
すてき
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惣一郎1269投稿
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