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2023年05月14日(日) 12時16分 byダイコン

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ご由緒
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小久観音は、民衆の苦難するとき共に受難に遭遇してきた観音であるとされています。
観音堂のそばに建っている縁起書によると、「大同元年徳一大師が開基し、永正15年(1518年)僧宗永の巡礼発起にはじまる」と記されています。
小久観音は、往古から熊野神社へ観音堂が合祀されており、神社も僧侶が管掌していました。
明和5年(1768年)に熊野神社より火災が起こり、観音堂も類焼しましたが、それから8年後の安永5年(1776年)にようやく再建が実現しました。
江戸時代には巡礼者でにぎわっていましたが、王政復古の明治初年(1868年)に神仏分離令が出て、それまでの慣行であった神仏混淆は許されなくなり、同2年(1869年)に熊野神社に祀っていた聖観音を宝林寺本堂へ遷さざるをえなくなりました。
明治20年(1887年)に至って、時の住職桂山和尚のはからいで、熊野神社の隣地へ敷地を求めて観音堂を建立し、御本尊をも遷すことができました。
ところが、昭和38年(1963年)11月25日正午、四倉町白岩に突如として火災が発生し、業火は40メートルの強風に煽られて北東へ延び、小久村の被害は民家41戸と山林800町歩を焼きつくし、小久観音堂はもとより、熊野神社や宝林寺も灰燼と帰しました。
以来、現住職高田大重禅師のたゆまぬ心願が実を結び、昭和50年(1975年)3月に宝林寺のほか観音堂の落慶を迎え、御本尊の聖観音も須弥座にお姿を現されたのです。
菩薩は民衆と共に難渋し、民心と共に蘇生してこられたのです。