ほうぞうじ|真言宗智山派|妙石山
寳藏寺(宝蔵寺)の編集履歴
ご由緒
「寶蔵寺」とは、開山から再建までの寺歴が定かでない寺であります。
しかしながら、「磐城古代記・磐城古代記補遺」などによると、正和の時代(1312年〜1317年)には、豊間村豊間の地に樋口館があり、好島荘に属しており、伊賀守頼の所領であったと伝えられています。
後には義介が知行することになりました。暦応4年(1338年)8月17日には、勝義判平太郎入道が住居を構えたとされています。
樋口館は、後館であり、前館である堀ノ内館を中心にして、それぞれの寺社を創設し、辰巳の方角に寶蔵寺を配置したとされています。
明治13年(1880年)には、当山第27世である光張和尚が、橋本仁三郎翁(仁左衛門)の尽力によって本堂を再建しました。
大正11年(1922年)には、光舜和尚が四家文吉翁の協力で大修復を行い、さらに菅光照住職が檀信徒の尽力を得て現在の本堂を建立しました。
当寺の山門は、樋口館の赤門(宝暦年間に修復されたもの)であり、本尊には大日如来が、薬師堂には薬師三尊や恵比須神などが祀られています。
また、浜街道十二薬師霊場第六番や浜三郡七福神霊場に指定されており、多くの参詣者が訪れています。
編集前:寶蔵寺は、開山から再建までの寺歴は定かではない。
しかし、『磐城古代記・磐城古代記補遺』等によると、
「豊間村豊間の地に樋口館ありて、この地正和(一三一二~一七)の頃好島荘に属し、 伊賀守頼の所領なり。
-中略-後には義介知行すべし。
-中略-暦応四年(一三三八) 八月十七日勝義判平太郎入道住居せしものとあり」
と載り、樋口館とは後館であり、前館である堀ノ内館を中心にして、それぞれの寺社を創設し、辰巳の方角に寶蔵寺を
配した。
明治十三年(一八八〇)に当山第二十七世光張和尚が、橋本仁三郎翁(仁左衛門)の尽力によって本堂を再建し、大正十一年(一九二二)には光舜和尚が四家文吉翁の協力で、大修復を行い、さらに菅光照住職が檀信徒の尽力をえて現本堂を建立した。
当寺の山門は樋口館の赤門(宝暦年間修復)であり、本尊に大日如来、薬師堂には薬師三尊、恵比須神を祀り、浜街道十二薬師霊場第六番、浜三郡七福神霊場に指定され、参詣者が絶えない。