こんこうじ|真言宗智山派|至玉山
金光寺の編集履歴
ご由緒
金光寺は、天平15年(743年)に河内国の地蔵房応一上人によって開山されました。
この時、応一上人は8体の地蔵菩薩を彫刻し、4箇所に安置したと伝えられています。
その後、建長4年(1252年)に近江国竹生島から下向した法印理密が当山に住み、奉持した竹生島弁財天の分霊を祀るための祠を造ろうとした時、美玉如意宝珠を掘り当てました。
このため、山号を「至玉山」と名付けました。
享徳年間(1452年-1455年)に、金光寺には阿弥陀堂と田畑山林が岩城氏より寄贈されました。
この堂宇に祀られている如来像は、岩城隆忠の次弟隆治が館を築くときに現れた尊像であり、以降「盧遮那山金光寺」と呼ばれるようになりました。
天文年間(1532年-1555年)に、恵日寺の末寺となった金光寺は、寛永年間(1624年-1644年)の法印勝賀の代に本堂を焼失し、宥隆の代によって再建されました。
しかしその後、明治戊辰戦争で再び焼失し、大正9年(1920年)に再建され、現在に至っています。
本尊は大日如来で、安政年間(1854年-1860年)頃の作とされています。
また、不動明王、弘法大師・興教大師像も祀られており、両大師とも京仏師岡本右近の作品です。
編集前:金光寺は、天平十五年(七四三)に河内国の地蔵房応一上人が開山した。
この時、応一上人は八躰の地蔵菩薩を彫刻し、四倉の八ヶ所に安置したといわれている。
その後、建長四年(一二五二)に近江国竹生島から下向した法印理密が当山に住し、奉持した竹生島弁財天の分霊を祀るための祠を造ろうとした時、美玉如意宝珠を堀りあてたので、山号を至玉山と名付けた。
享徳年間(一四五二~一四五五)に、阿弥陀堂と田畑山林が岩城氏より寄進された。 この堂宇に祀る如来像は、岩城隆忠の次弟隆治が館を築くときに現われた尊像であり、盧遮那山金光寺と号するように なった。
天文年間(一五三二~一五五五)に恵日寺の末寺となった金光寺は、寛永年間(一六二四~四 四)の法印勝賀代に本堂を焼失し、宥隆代に再建した。
しかしその後、明治戊辰戦争での兵火によって再び焼失し、大正九年(一九二〇)に再建され、現在に至っている。
本尊は大日如来で、安政年間(一八五四~六〇) 頃の作といわれている。 その他に、不動明王、弘法大師・興教大師像が祀られており、両大師とも京仏師岡本右近作である。