やくおうじ|真言宗智山派|延寿山
薬王寺の編集履歴
ご由緒
薬王寺は、大同年間 (八〇六~八一〇) に八茎岳薬師の別当として開山された。
この頃、磐城三薬師といわれる、赤井岳・八茎岳・波立が東国に下向した徳一大師によって開創されている。
永仁三年(一二九五) に真言宗の高僧禅弁が入山したが 、 南北朝中期頃からその勢力が衰徴し 、 文安三年(一四四六) には岩城隆忠が鏡祐法印を中興開山として迎え、自らが開基となって、薬王寺の再興につとめた。
永禄十年 ( 一六六八 ) に岩城親隆より白岩村堂井を寄進され、文禄五年(一五九六) には作竹義憲から寺領百石を下賜され、百六十二の末寺を擁し、御朱印五十石を賜わった。
しかし、明治戊辰戦争には笠間藩兵の陣屋となり、七月三日に攻戦する平藩兵によって四十八の伽藍諸堂はすべて天燼に帰した。
その後、明治三十年(一八九七)に古寺を移築して仮本堂を再建したが、昭和六十一年の祝融による残火で焼失した。
現在の本堂は平成五年に落慶され、本堂の裏にある宝蔵庫には、数点の重要文化財が保存されている。
編集前:薬王寺は、大同年間 (八〇六~八一〇) に八茎岳薬師の別当として開山された。
この頃、磐城三薬師といわれる、赤井岳・八茎岳・波立が東国に下向した徳一大師によって開創されている。
永仁三年(一二九五) に真言宗の高僧禅弁が入山したが 、 南北朝中期頃からその勢力が衰徴し 、 文安三年(一四四六) には岩城隆忠が鏡祐法印を中興開山として迎え、自らが開基となって、薬王寺の再興につとめた。
永禄十年 ( 一六六八 ) に岩城親隆より白岩村堂井を寄進され、文禄五年(一五九六) には作竹義憲から寺領百石を下賜され、百六十二の末寺をし、御朱印五十石を賜わった。
しかし、明治戊辰戦争には笠間藩兵の陣屋となり、七月三日に攻戦する平藩兵によって四十八の伽藍諸堂はすべて天燼に帰した。
その後、明治三十年(一八九七)に古寺を移築して仮本堂を再建したが、昭和六十一年の祝融による残火で焼失した。
現在の本堂は平成五年に落慶され、本堂の裏にある宝蔵庫には、数点の重要文化財が保存されている。