じょうしょういんがんじょうじ|真言宗智山派|鶴隆山
常勝院岩城寺の編集履歴
ご由緒
常勝院・岩城寺は、1530年(享禄3年)に中山隆朝の子である見瑜上人が好間大館にて開山し、寺号は戦国武将の岩城氏との縁が深く、岩城氏が転封された際に現在地に移されました。
本堂は年代がかなり古く、古松渓流や唐獅子の彩色板襖がある広い書院では、平藩主内藤諸候達の歌会が催されたのではないかと推察されています。
本尊と協仏に加えて、大聖歓喜天の尊像があり、子授け、商売繁昌、諸願成就の神として信仰されています。
什宝には、かつて1578年(天正6年)に田村月斎が会津で著作した「軍旅新論」や、1758年(宝暦8年)の涅槃図、1861年(文久元年)の光明真言図、従四位安藤信勇の山号額、大般若経600巻など、多数の古文書が残っています。
境内の御堂には、智恵の神である文殊菩薩が祀られ、進学祈願の参詣者で賑わっています。
また、樹齢300年になる銘木の八房(やつふさ)の梅があり、昔から「八房の梅寺」と呼ばれ、俳人で有名な内藤露沾が1724年(享保9年)に来院し、「六免の香は乾山焼の幾代とも」と詠んでいます。
編集前:常勝院は、1530年(享禄3年)に中山隆朝の子である見瑜上人が好間大館にて開山し、寺号は戦国武将の岩城氏との縁が深く、岩城氏が転封された際に現在地に移されました。
本堂は年代がかなり古く、古松渓流や唐獅子の彩色板襖がある広い書院では、平藩主内藤諸候達の歌会が催されたのではないかと推察されています。
本尊と協仏に加えて、大聖歓喜天の尊像があり、子授け、商売繁昌、諸願成就の神として信仰されています。
什宝には、かつて1578年(天正6年)に田村月斎が会津で著作した「軍旅新論」や、1758年(宝暦8年)の涅槃図、1861年(文久元年)の光明真言図、従四位安藤信勇の山号額、大般若経600巻など、多数の古文書が残っています。
境内の御堂には、智恵の神である文殊菩薩が祀られ、進学祈願の参詣者で賑わっています。
また、樹齢300年になる銘木の八房(やつふさ)の梅があり、昔から「八房の梅寺」と呼ばれ、俳人で有名な内藤露沾が1724年(享保9年)に来院し、「六免の香は乾山焼の幾代とも」と詠んでいます。