しゅつぞうじ|真言宗智山派|大櫻山
出蔵寺(出蔵観音)の編集履歴
ご由緒
【 出蔵寺の歴史と観音堂 】
出蔵寺は徳一菩薩によって大同2年(807年)に開かれたと伝えられていますが、その後の寺の歴史は明確ではありません。
権大僧都有意和尚によって寛政9年(1797年)に再興され、現在の本堂が建てられました。
本堂の正面には龍の彫刻があり、その左右には月と太陽が刻まれています。
明治初年の神仏分離令により寺は無住となりましたが、大正3年(1914年)、宝厚和尚によって智山派に改宗され、再び中興されました。
出蔵寺には明治11年(1878年)の観音堂火災の際、現存する「一往古形鍬」と「書き付け」があります。
境内には磐城三十三観音第10番札所の出蔵観音堂があり、千手観世音菩薩が祀られています。
【 神仏分離令と現在 】
酒井地区はかつて棚倉藩に属しており、明治元年(1868)の神仏分離令は寺院を非常に抑圧し、仏教の破壊運動が激化しました。
観音堂もその一つであり、ある人によって水戸へ三夜様のお堂として金15両で売却され、千手観音像は山へ捨てられました。
幸いにも千手観音像は地元の荒川兵衛氏によって保管され、昭和13年(1938年)の観音堂再建時にお堂の中へ戻されましたが、この出来事で観音様は多くの手を失ってしまいました。
水戸の三夜様のお堂は現在も建っており、出蔵寺の飾り竜の一つも含まれていたと言われています。
観音様の災難に関する証拠の書類は同地区の区有文書の中に現存しているとされています。
出蔵寺では、観音の痛々しい出来事を知って、今でも日々燈火を灯し、衆生を救う観音様を厚くお守りしています。
編集前:出蔵寺は徳一菩薩によって大同2年(807年)に開かれたと伝えられていますが、その後の寺の歴史は明確ではありません。
権大僧都有意和尚によって寛政9年(1797年)に再興されました。
現在の本堂はその頃に建てられ、正面の欄間には龍の彫刻があり、その左右には月と太陽が刻まれています。
明治初年の神仏分離令により、寺は無住となりましたが、大正3年(1914年)、宝厚和尚によって真言宗豊山派から智山派に改宗され、再び中興されました。
出蔵寺には明治11年(1878年)の観音堂火災の際、出現したと伝えられる「一往古形鍬」と「書き付け」が現存しています。
この鍬は、養老年間の民話『酒井の井戸』でも登場し、当時の寺の建設にも使用されたとされています。
境内には、磐城三十三観音第10番札所の出蔵観音堂があり、千手観世音菩薩が祀られています。
観音堂ですが、この酒井地区は藩政時代棚倉藩に属していました。
明治元年(1868)の神仏分離令は寺院を非常に抑圧し、徹底的に排仏毀釈の方向へ進んで、仏具・経文などを破壊する運動が激化し、観音堂はある人によって、水戸へ三夜様のお堂として金15両で売却され、白木造りで等身大の御本尊千手観音は山へ捨てられました。
幸いなことに、千手観音像は地元の故荒川兵衛氏によって拾われ、同氏宅に保管されたため、昭和13(1938)年の観音堂再建を期にお堂の中へ戻りましたが、この悲惨な出来事で、観音様は多くの手を失ってしまいました。
水戸の三夜様のお堂は今も昔のままで建っていますが、売却の際に出蔵寺の飾り竜も含まれていたようで、双竜の一つが出蔵寺に、もう一つが水戸の三夜様のお堂にあると言われています。
このような、観音様の災難に関する証拠の書類が、同地区の区有文書の中に現存しているとされています。
出蔵寺では、観音の痛々しい出来事を知って、今でも日々燈火を灯し、衆生を救う観音様を厚くお守りしています。