かんのんじ
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瀧寿山 普門院 観音寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年10月10日(木)
参拝:2023年9月吉日
山号は瀧寿山、院号は普門院、寺号は観音寺、宗派は天台宗、ご本尊は阿弥陀三尊来迎、奥の細道みちのく路三十三ヶ所霊場、第二十八番札所、信達坂東三十三観音霊場、二十二番札所、天安二年(858年)に奥州安擦使(あぜち)山陰中納言(伊達家元祖)の発願により、慈覚大師の高弟道叡和尚が、奈良吉野山の白滝の中から出現した聖観世音菩薩(長野善光寺形)を本尊にいただき開山したと伝えられています。「天安元年の夏、奈良吉野の白滝の所が、夜な夜な光明を放つことあり、民が不思議に思い比叡山の慈覚大師にその事を告げると、大師は自ら白滝の元へ駕篭をなし暫く観念せられると、光とともに滝より金銅一尺二寸の観音様が現れ、その霊験あらたかなること筆舌に及びがたし」と由来碑には刻されています。
山陰中納言は故あってこの地に居住しますがこの霊験あらたかなる観音様を深く信仰し、大発願のもと慈覚大師に願い出て自身の守り本尊とし、大師の高弟道叡とともにこの地に来臨し、上鳥渡玉ノ森山に一宇の草堂を建てて安置し、白滝の名にちなんで「瀧寿山」を開山したと伝えられています。山陰中納言は後に大宰府都督となり、五十年後に現大阪府茨木市に補陀洛山総持寺(真言宗)を建立し、そこに墓所が現存しております。
その後、江戸初期寛永年間玉の森山の寺は焼失しましたが、本尊の観世音菩薩は難を免れ、寛永十八年(1641年)に、中興の祖清海和尚により、現在地に現本堂が建立され、上野寛永寺の直末寺として、瀧寿山普門院観音寺を名のりました。のちに元文二年(1737年)に東手参道添いに大悲殿(観音堂)が建立され、古来の聖観世音菩薩は大悲殿に移遷され、本堂には新たに阿弥陀三尊来迎像が安置されて、現在に至っております
山陰中納言は故あってこの地に居住しますがこの霊験あらたかなる観音様を深く信仰し、大発願のもと慈覚大師に願い出て自身の守り本尊とし、大師の高弟道叡とともにこの地に来臨し、上鳥渡玉ノ森山に一宇の草堂を建てて安置し、白滝の名にちなんで「瀧寿山」を開山したと伝えられています。山陰中納言は後に大宰府都督となり、五十年後に現大阪府茨木市に補陀洛山総持寺(真言宗)を建立し、そこに墓所が現存しております。
その後、江戸初期寛永年間玉の森山の寺は焼失しましたが、本尊の観世音菩薩は難を免れ、寛永十八年(1641年)に、中興の祖清海和尚により、現在地に現本堂が建立され、上野寛永寺の直末寺として、瀧寿山普門院観音寺を名のりました。のちに元文二年(1737年)に東手参道添いに大悲殿(観音堂)が建立され、古来の聖観世音菩薩は大悲殿に移遷され、本堂には新たに阿弥陀三尊来迎像が安置されて、現在に至っております
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