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国分寺ではいただけません
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こくぶんじ

国分寺のお参りの記録(1回目)
福岡県五郎丸駅

投稿日:2024年06月16日(日)
参拝:2024年6月吉日
筑後三十三ヶ所観音霊場参り
第十一番
天台宗 国分寺
ご本尊 聖観世音菩薩さま
国分寺は筑後川沿いの宮ノ陣橋の袂にある。電車なら宮の陣駅で下車、町中を筑後川方向に歩くと「元三大師」の看板があり、看板に従って行くと山門に至る。

 車なら国道3号線から分岐する210号のバイパスを久留米インターの方向に進み、中央公園北の交差点を左折して宮ノ陣橋を渡る。橋の上から右前方に同様の「がん三大師」の看板が見えるから橋の横を右折して筑後川の堤防の上を進み、看板横の細道を下ると国分寺の本道横に至る。駐車場は本道の斜め裏にある。

 この寺の創建は天平時代まで遡る。天平十三年(741)に聖武天皇は国情不安を鎮撫するため、国ごとに国分寺と国分尼寺の建立を命じ、奈良東大寺を全国の国分寺総本山に、法華寺を国分尼寺の総本山に定めた。
 その勅願により建立された筑後の国分寺がこの寺である。今も全国各地に国分のつく寺や地名が数多く残る。

 昔の筑後国分寺は久留米の国分町にあったと伝えられる。しかし、南北朝時代の南北朝時代の筑後平野は一帯は懐良親王を奉じる南朝方と太宰府勢の北朝方との攻防、戦国時代には薩摩の島津と肥前の龍造寺が覇を競い合うなど、兵火が多かった土地柄である。だから、中世までの国分寺については暦応二年(1239)に足利尊氏が寺産一五町をつけて再興したと伝えられるほかには、その詳細は分からない。

 現在の国分寺は慶長六年(1601)に筑後の太守となった田中吉政公が宮の陣の現在地に再興した。また、明治元年(1868)の神仏分離令による廃仏毀釈の時に、高良山明静院の霊徹往持が藩命で国分寺に移るときに「石造仁王像」「元三大師」「大聖歓喜天」と「地蔵来迎図板碑」などの主要な高良山から国分寺に移された。
 殊に高良山愛宕神社奥の院からもたらされた「地蔵来迎図板碑」には天平二十二年(1367)九月の銘があり、福岡県の文化財に指定されている。ほかに懐良親王のご親筆とされる「観世音菩薩普門品写経」も寺宝になっている。

 元三大師(912~985)とは慈恵大師のこと。正月三日に遷化したので元三大師、がんざん大師と通称される。大師は近江の人、十二歳で比叡山に入り十七歳で受戒得度して良源上人となる。叡山きっての学僧と言われ、五十五歳で天台座主になると堂塔伽藍の復興に努めて叡山の中興の祖と仰がれた。勅謚号は慈恵大師。

 大師が仏教の経典に基づいて「おみくじ」百籤を考案したので、今日ではおみくじの元祖として知られている。様々の霊験を持つ人で、大師のお姿を写した牌(紙のお札)は病魔退散、厄除けの効験があるとして、広く信仰されている。毎年一月三日の「元三大師大祭」、毎月三日の「元三大師ご縁日」には厄除けの祈願やお札を受ける善男善女が遠近から大勢訪れて、国分寺は厄除けのお寺として親しまれている。
国分寺(福岡県)
納経印
国分寺(福岡県)
天台宗 がん三大師 国分寺
国分寺(福岡県)
本堂
国分寺(福岡県)

すてき

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