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光明寺ではいただけません
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光明寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年07月20日(土)
参拝:2024年7月吉日
浄土真宗本願寺派
光明寺
ご本尊 阿弥陀如来さま
江戸時代 一六五四年、久留米有馬藩二十一万石(旧久留米市 三潴郡 三井郡 浮羽郡)で浄土真宗の改派騒動が起こり、領内一三五ヵ寺の真宗寺院が、「改派の誓紙」を東本願寺に提出しています。(江戸での徳川秀忠公十七回忌法要の時、西本願寺第十三代宗主 良如上人と藩主 有馬忠頼公が関係した些細な揉め事が原因との説。)
当地は、真宗大谷派久留米教区として今もって、東本願寺の牙城です。
ただ、西本願寺総局も明治三十六年、のちに大谷探検隊を率いてシルクロードの西域文化の史跡発掘・蒐集に出向いた、西本願寺第二十二代宗主「大谷光瑞猊下」が御門主にご就任されるや、久留米での開教に着手され、明治四十四年 宗祖親鸞聖人六五〇回大遠忌法要を縁として、光明寺が久留米の地に、唯一の西本願寺直轄の寺院として建立されました。光明寺の寺号の由縁は、明治時代の中期、西本願寺第二十一代宗主「大谷光尊御門主」が鹿児島への御巡教の折、久留米を通る時に立ち寄る寺院が無くて、「久留米を通る時はトンネルの中を通る思いだ」という、お気持ちを伝えられていたことに由来し、「トンネルの地に、ひとすじの光明を灯していただきたい」という、「大谷光瑞御門主」の強い願いの表れだったと言い伝えられています。当時、京都御本山から赴任した初代住職 傍示鉄男の時代には、草創期にもかかわらず仏教婦人会、西南仏教学院を設立し、教線の拡大と宗門興隆に力を尽くし、第二代住職 傍示曉了の時代には、その人柄を通じて寺門の護持発展とお念仏繁盛に大いなる力を発揮し、いまの光明寺の礎を築いています。
光明寺
ご本尊 阿弥陀如来さま
江戸時代 一六五四年、久留米有馬藩二十一万石(旧久留米市 三潴郡 三井郡 浮羽郡)で浄土真宗の改派騒動が起こり、領内一三五ヵ寺の真宗寺院が、「改派の誓紙」を東本願寺に提出しています。(江戸での徳川秀忠公十七回忌法要の時、西本願寺第十三代宗主 良如上人と藩主 有馬忠頼公が関係した些細な揉め事が原因との説。)
当地は、真宗大谷派久留米教区として今もって、東本願寺の牙城です。
ただ、西本願寺総局も明治三十六年、のちに大谷探検隊を率いてシルクロードの西域文化の史跡発掘・蒐集に出向いた、西本願寺第二十二代宗主「大谷光瑞猊下」が御門主にご就任されるや、久留米での開教に着手され、明治四十四年 宗祖親鸞聖人六五〇回大遠忌法要を縁として、光明寺が久留米の地に、唯一の西本願寺直轄の寺院として建立されました。光明寺の寺号の由縁は、明治時代の中期、西本願寺第二十一代宗主「大谷光尊御門主」が鹿児島への御巡教の折、久留米を通る時に立ち寄る寺院が無くて、「久留米を通る時はトンネルの中を通る思いだ」という、お気持ちを伝えられていたことに由来し、「トンネルの地に、ひとすじの光明を灯していただきたい」という、「大谷光瑞御門主」の強い願いの表れだったと言い伝えられています。当時、京都御本山から赴任した初代住職 傍示鉄男の時代には、草創期にもかかわらず仏教婦人会、西南仏教学院を設立し、教線の拡大と宗門興隆に力を尽くし、第二代住職 傍示曉了の時代には、その人柄を通じて寺門の護持発展とお念仏繁盛に大いなる力を発揮し、いまの光明寺の礎を築いています。
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