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萩尾阿弥陀堂ではいただけません
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萩尾阿弥陀堂のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年01月02日(火)
参拝:2023年10月吉日
篠栗四国八十八ヶ所お遍路始めたので、休みの間に今までのを掲載していこうと思います。呑山方面に上っていくと赤いとんがり屋根の萩尾分校が見えてくる。その手前消防格納庫の裏手に『萩尾阿弥陀堂』がある。
明治16年(1883)萩尾集落に大火事があり、集落の民家は全焼、阿弥陀堂も燃えて本尊は首と胴と台座に分かれてしまった。また、腹痛で大変苦しんでいる人の夢枕に阿弥陀様だ立たれ、腹痛が治ったという。以来「火難除け」「腹痛治療」の阿弥陀様として信仰を集めた。
この集落には萩尾姓が多いが、読み方が少し変わり姓は「はぎお」地名は「はぎのお」と読み分ける。
守堂者の先祖は筑前岩屋城主の高橋紹運家臣の萩尾大学(伊東繁連)という戦国武将で、天正14年(1586)岩屋城(四天王山)の戦いで城主共々討ち死した。その子孫が萩尾の地に隠棲、帰農したと伝えられる。
守堂者は「小学校時代から朝起きて顔を洗うとお堂に行き、お茶湯、花の水替え、掃除は子供の仕事でした。その後ご飯を食べ学校に行きよりました。」という。
明治16年(1883)萩尾集落に大火事があり、集落の民家は全焼、阿弥陀堂も燃えて本尊は首と胴と台座に分かれてしまった。また、腹痛で大変苦しんでいる人の夢枕に阿弥陀様だ立たれ、腹痛が治ったという。以来「火難除け」「腹痛治療」の阿弥陀様として信仰を集めた。
この集落には萩尾姓が多いが、読み方が少し変わり姓は「はぎお」地名は「はぎのお」と読み分ける。
守堂者の先祖は筑前岩屋城主の高橋紹運家臣の萩尾大学(伊東繁連)という戦国武将で、天正14年(1586)岩屋城(四天王山)の戦いで城主共々討ち死した。その子孫が萩尾の地に隠棲、帰農したと伝えられる。
守堂者は「小学校時代から朝起きて顔を洗うとお堂に行き、お茶湯、花の水替え、掃除は子供の仕事でした。その後ご飯を食べ学校に行きよりました。」という。
すてき
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マツケンサンバ216投稿
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