てんしゃぐう・たいざんふくんしゃあと
天社宮・泰山府君社跡の編集履歴
ご由緒
今から約1300年前、奈良時代の遣唐使、阿倍仲麻呂公は、中国で泰山府君大神の教伝と陰陽道家の法を学んでいました。彼は親友である吉備真備公にこれらの知識と泰山府君大神の御神璽を託し、天平七年(735年)、日本に帰国する吉備真備公によって、日本に泰山府君大神の信仰が伝えられました。
吉備真備公が帰国した翌年の天平八年(736年)12月13日、聖武天皇は若狭国名田庄を泰山府君祭料知行地と定めました。この名田庄は、古くから泰山府君大神と深い縁のある地とされています。
当初は吉備家によって守護奉斎されていた泰山府君大神ですが、阿倍仲麻呂公の意思に従い、やがて安倍(土御門)家に移されました。以後、代々の安倍(土御門)家では「大元尊神・泰山府君大神」として奉斎されるようになりました。
平安時代、安倍晴明公は特にこの泰山府君大神を陰陽道の主祭神として篤く信仰しており、京都堀川一条葭屋町(現在の安倍晴明神社境内)にある安倍晴明公の邸内に、荘厳な社殿を建立しました。
しかし、応仁正中の乱で社殿が焼失し、戦火を逃れた御神璽は、若狭の神領地から京都に帰洛した土御門久脩卿によって、山城国旧葛野京、梅小路唐橋(現京都市下京区千本七条下ル唐橋町)に新たな社殿が建設され、そこに奉斎されることになりました。 その後、御陽成天皇から孝明天皇に至る十四代、将軍徳川家康から家茂公に至る十四代の大祭が行われました。
この泰山府君大神を奉斎する社殿はこの京都の土御門家邸にのみ存在し、「日本一社」と称され、江戸時代の天和二年(1682年)には、霊元天皇から「天社宮」の称号を賜りました。
第二次世界大戦終戦の翌年、昭和二十一年(1946年)には、文部大臣の認証を受け、土御門範忠元子爵と土御門神道本庁庁長藤田義男(安倍家の親縁でもある藤田家三十七代目)によって、安倍(土御門)家で代々奉斎されてきた「元津之社御本璽」が京都市山科に仮安置された後、古くから泰山府君大神と所縁のある、ここ名田庄に遷宮されました。
天社土御門神道本庁にお祀りしている神様は、陰陽道宗家として、約1300年前の阿倍仲麻呂公から安倍晴明公を含む、代々、土御門(安倍)家邸内で大切に奉斎されてきた日本一社の泰山府君大神となります。[当HPご由緒より抜粋]