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じょうぐうじんじゃ

常宮神社の御由緒・歴史
福井県 敦賀駅

ご祭神天八百萬比咩神(あめのやおよろずひめのかみ)
神功皇后(じんぐうこうごう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
ご神体不詳
創建時代仲哀天皇二年
創始者仲哀天皇
ご由緒

 天八百萬比咩命(常宮大神)は上古より此の地に鎮まり給い、今から2,000年前、仲哀天皇の即位2年春2月に天皇皇后御同列にて百官を率いて敦賀に行幸あそばされ、筍飯の行宮を此の地に営まれた。
そののち、天皇は熊襲の変を聞こしめされ、紀州に向かわれ、さらに陸路、山陽道を御通過、今の山口県に向かわれた。
 神宮皇后は、2月より6月まで此の常宮に留まられ、6月中の卯の日に海路日本海をお渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再会あそばされた。
この由緒をもって、奈良朝時代の大宝3年(703)、勅をもって社殿が修造され、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、日本武命、玉妃命、武内宿禰命が併せ祀られたという。
当社御社名は神功皇后が「つねに宮居し、波風静かなる哉楽しや」と宣り給われた故事によるという。
 爾来、氣比神宮の奥宮として一体両部、上下の信仰篤く、小浜藩政まで氣比神宮の境外の摂社として祭祀が執り行われた。明治9年5月、県社常宮神社として氣比神宮から独立。
 天八百日咩命は、養蚕の守り神として敦賀は勿論、南条郡、三方郡、さらには滋賀県北部の人々の信仰を集めてきた。
神功皇后は、三韓親征の前此の地にて御腹帯をおつけあそばされ、のち、今の福岡県粕屋郡宇美町にて応神天皇を御安産になられた故事に因み古くより安産の神として御神徳を垂れ給われている。
また皇后は此の地を船出されるにあたり、海神を祀り海上の安全を祈願され、はるばる日本海を渡られ、朝鮮までも無事航海された由縁により、海の守り神として深い信仰を集めている。
豊臣秀吉公、当社を崇敬し、文禄の役(1592)に兵たちの武運長久を祈願し、凱旋に際して、慶長2年(1597)2月29日彼の地朝鮮の吊鐘1口を敦賀城大谷刑部吉隆を正使として奉納した。
この吊鐘は「朝鮮鐘」の名で明治33年、美術工芸甲種第1号として国宝に指定され、昭和27年10月、新国宝に再び指定を受けた。
 本殿は、越前福井藩主松平公の寄進により、正徳2年(1713)の建築である。
御屋根銅版葺替修理を昭和38年7月に行った。
御拝所は、元、氣比神宮中門であったものを昭和17年当社に移築したが、これは、寛永14年(1637)酒井忠勝公の寄進である。
 当社の例祭は、毎年7月22日午前10時より行われる。
そして同正午より総参祭が斎行される。
この総参祭は、氣比神宮の宮司・神職・総代ほか多数が、氣比の神々を船神輿に奉安し大小の船を連ねて当宮に海上渡御され、当宮本殿に遷ったのち、再び午後3時に帰還されるものである。
たなばた祭とも呼ばれている。

歴史
歴史[編集] 創建[編集] 氣比神宮(敦賀市曙町)越前国一宮。常宮神社とは深い関係にある。 社伝では、主祭神の天八百萬比咩命は上古より当地に鎮まっていたという。そして、仲哀天皇2年2月に天皇と神功皇后が気比神を拝してから三韓征伐に赴く際、天皇は単身紀伊を経て長門へ向かったが、皇后はなお常宮に留まって外征の謀をめぐらし、6月初卯の日に出征したと伝える[1]。その後大宝3年(703年)に勅命によって社殿の修造がなされ、神功皇后・仲哀天皇・日本武命・応神天皇・玉姫命・武内宿禰命の6柱が合祀されたと伝える[1]。以後は氣比神宮の境外摂社として推移したという[1]。 一方で『気比宮社記』によれば...Wikipediaで続きを読む
引用元情報常宮神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%B8%B8%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=97467500

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