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楽しみ方佐佳枝廼社の御由緒・歴史
歴史詳細情報
佐佳枝廼社は、福井藩の東照宮を前身とする神社です。福井城の三の丸に始まり、明治の世に松平春嶽公から社名を賜り、戦災と震災による二度の焼失を経て、いまの地に社殿を構えております。
前身 ―― 福井藩の東照宮
寛永5年(1628年)、三代福井藩主 松平忠昌公が、福井城三の丸の神明宮の西に東照宮を勧請したことに始まります。
その別当を務めたのが、天台宗の泉蔵院(正式名 万福山泉蔵院瑠璃光寺)です。泉蔵院ははじめ浅草寺智楽院の末寺、のちに輪王寺宮の直末寺となりました。
社名「佐佳枝廼社」の由来
明治維新の神仏分離により、東照宮は寺院別当の手を離れ、神社として改めて立てられることとなりました。
明治6年(1873年)7月20日、十六代藩主 松平慶永(春嶽)公の御直書により、社名を「佐佳枝廼社」と定められました。
この名は、古事記や祝詞に見える「榮井(さくゐ)」の字に由来し、「この榮井の里をはじめ、もとより知る民草の身の上を守らん」との意が込められています。「福井が栄えるように」という願いが、社名そのものになっているのです。
明治の歩み
鎮座祭
県社に列格
春嶽公の合祀
藩祖三百年祭
二度の災禍と、境内から生まれた商店街
昭和20年(1945年)7月の福井空襲、昭和23年(1948年)6月の福井地震により、御社殿と付帯施設の一切を焼失いたしました。昭和23年以前の記録や宝物も、このとき失われています。
しかし復興の気運はすぐに高まり、昭和30年には鉄筋コンクリート造・入母屋造の御本殿を造営いたしました。設計・監修は伊藤平左衛門、権現造りで、本殿と祝詞殿の内部は木曾檜造り、屋根は銅板葺きです。
また戦後、当社は福井市の要請を受け、大陸から引き揚げて来られた方々や、戦災で焼け出された方々のために境内の一部を提供いたしました。当初は門前町として、浅草の仲見世通りにも比する商店街をと願ってのことでした。
全国初の、神社を含む再開発
戦後40年を経て建物の老朽化が進み、また福井市の中心部としてふさわしい景観を望む声が高まりました。さまざまな案が検討された末、神社を含む再開発という全国でも例のない大事業が平成元年(1989年)3月に着工。3年余りの工事を経て、平成4年(1992年)4月17日に竣功いたしました。
境内の下に駐車場を備え、社殿と市街地が一体となった、いまの佐佳枝廼社の姿は、このとき生まれたものです。
御鎮座壱百年
昭和49年(1974年)、御鎮座壱百年の奉祝大祭を執り行いました。
目次
前身 ―― 福井藩の東照宮社名「佐佳枝廼社」の由来明治の歩み二度の災禍と、境内から生まれた商店街全国初の、神社を含む再開発御鎮座壱百年| ご祭神 | 当神社では、福井藩祖である松平秀康公、 江戸幕府初代将軍である徳川家康公、 福井藩16代藩主である松平慶永公(春嶽公)を 主祭神としてお祀りしております。 ◆相殿御祭神◆ 土屋左馬助正明命(殉死、藩祖の家臣で武将) 永見右衛門長次命(殉死、藩祖の家臣で武将) 吉田修理義寛命 (福井城築造総督の武将) | |
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| 創建時代 | 寛永5年(1628年) | |
| ご由緒 | 当神社の由緒は、寛永5年(1628)、
明治6年、福井藩祖松平秀康公の御偉業を称えてお祀りするにあたり、春嶽公により社名を佐佳枝廼社と命名されました。
戦後、当神社は福井市の要請のもと、大陸から引き揚げて来られた方々や戦災で焼け出された方々のために境内の一部を提供し、当初は門前町として浅草の仲見世通りにも匹敵する商店街をと希望しておりました。
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