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神明神社ではいただけません
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しんめいじんじゃ

神明神社のお参りの記録(1回目)
福井県仁愛女子高校駅

投稿日:2019年09月30日(月)
参拝:2019年9月吉日
由 緒
 社伝によると、往古越前国足羽群足羽郷北庄三郷は伊勢神宮に御戸帳を奉る御領地であった。
平安時代北庄に明光長者という人があり、日頃より伊勢の神宮を深く尊崇し、御神徳を蒙り奉る事が少なくなかった。

そこで当地に御社殿を造営して皇大神宮を勧請したき旨を朝廷に奏したところ、天皇は深く叡感なされて直ちに「国家鎮護の為大神宮を勧請せしむべし」との勅令が下された。

かして延長二年(924)三月九日、右大弁藤原親正、神使久志本広次等が、御分霊・神宝・幣帛等を奉戴して北庄へ参着、暫く足羽神社宝殿に鎮座の後、同年九月二十日、社殿の竣工をまって鎮座された。

祭神にきわめて由縁深い三月九日、九月二十日は春秋の大祭日として明治まで承け継がれた。
その後平重盛が国司の時に土岐七郎の奉行によって社殿が再興されたのを最初として、以後数十度にわたって再興・修復が行われた。
中でも朝倉氏は当神社を守護神として崇敬し、数度にわたる造営を行っている。
その後織田信長の朱印状を得て国中より棟別銭を集めて社殿を再興した。

以後造営、修復を重ねて、本殿・拝殿・神門・廻廊・神楽殿・湯華殿・絵馬堂・手水舎が建ち並び、数基の鳥居、二十数基の燈籠が林立する社頭にととのえられて、昭和に及んだ。

永年に亘って築きあげられた社殿・境内は昭和二十年の戦火と昭和二十三年の震災によって悉く灰燼に帰してしまい、永らく仮社殿にて神事を斎行してきたが、昭和四十二年に神明造りの本殿・流れ造入母屋唐破風の拝殿が竣工。

同四十七年に儀式殿。同五十二年には境内社合祭殿の再興、斎館が新築され、更に同六十一年には本殿・幣殿・拝殿の内部造作材の総てを木曽桧材に替え、屋根を葺替えるなどの造替工事が行われ、同六十三年春には社務所が建て替えられて、氏子崇敬者、地域社会の施設にふさわしい建築が整備されるに至った。

社伝には、平重盛を始め源頼朝、丹羽長秀、堀氏、青木秀以、松平家歴代国主の崇敬も篤く、社領寄進、社殿造営、社参奉幣の事など枚挙にいとまがない。

朝倉広景は敬神の念が特に篤く、貞和三年(1347)には、領内の諸社に先駆けて当神社の規模を修復し、六代家景は文安三年(1446)に再興し、初代越前守護となった孝景もまた深く当神社を崇敬して国の安泰と民心の安定を祈願しており、一乗谷に移ってからも朝倉氏の守護神として尊崇され、代々参詣を怠らなかったと言う。

 結城秀康は慶長八年(1603)神領二十石を寄進し、本多富正は同七年に鳥居、秀康公の母、長松院は石瑞籬を建立し植木二百本を寄進している。

二代忠直もまた元和五年(1619)に社領八十石を加増し、社檀、廊下、瑞籬を建てた。
以後の歴代藩主も就封後の社参奉幣、叙位任官の際の奉告は怠らずに行ない、社殿を修復し、判物を与え、国元で出産の時には安産を祈願し、誕生後には初宮詣を行ない、当神社を氏神として崇敬していた。

社領百石は元和六年(1620)には幕府によって安堵され、以後越前国内では平泉寺白山社と共に歴代将軍家によって安堵される御朱印地とされていた。

(神社庁HPより)
神明神社の御朱印

すてき

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