由 緒
創立の年月不詳。
『神社明細帳』に古老の口伝として由緒記録がある。
即ち往昔は此の地を「あさんす」と言い滋賀県日吉大社の分霊を勧請し日吉神社と称した。
白鳳年間(661~)当地の住人(船守)三神安角妻伊野氏は常に日吉神社を崇拝していた。
祈願して生まれた子が後の泰澄大師であるという。
その後当地にある天台宗称名寺(今は大谷派に改宗)が別当となって本神社を管理していた。
延元年間(1336~1338)日吉神社は近江国坂本山王社の分霊を祀ってあるといういわれから新田義貞が参拝し戦勝祈願をされ度々の戦に勝利をおさめたとも伝えられる。
天正年間(1573~1592)の兵乱に社殿の一部が焼失。
貞亨甲子元年(1684)の春、松岡藩祖松平昌勝が眼病にかかり称名寺に滞在して平癒祈願をされた所僅か17日で治癒されたので田地封書を賜り、尚藩家御紋所の使用を差し許した。
当時称名寺は神社別当であった関係から、古文書・汁器物を始め新田義貞遺物等多数あったが天明壬寅2年(1782)4月称名寺は火災にあい此れらの古文書他は焼失した。
現在残っているのは松平昌勝より賜った封書のみである。
弘化2年(1845)本殿再建。
明治維新の神仏混合を区分して称名寺は日吉神社と別れた。
明治10年村社に加列。
同41年拝殿新築。
大正3年1月11日神饌幣帛を供進すべき神社に指定された。
昭和8年頃より神域が狭く拡張への機運が高まり同13年12月福井県より拡張への機運が高まり同13年12月福井県より拡張許可を得た明治時代からの境内は360坪であったが405坪となった。
併せて社殿・神楽殿が改新築された。
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