ふどういん
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楽しみ方不動院(東光寺)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年04月17日(金) 07時14分15秒
参拝:2024年1月吉日
茨城県 稲敷市 江戸崎 に境内を構える、東光寺 江戸崎不動院、名僧 天海僧正ゆかりの寺院で知られる、正式名称は 醫王山 不動院 東光寺、当方は 道の駅 全国制覇者で、全国の寺社、霊場を巡礼しております 2024.に 北関東不動尊霊場にて参拝致しました、寺院対応は 親切で快く対応して下さり、また訪れたいと思える寺院様でした、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は 醫王山、院号は 不動院、寺号は 東光寺、宗旨 宗派は 天台宗、ご本尊は 不動明王、北関東三十六不動尊霊場 第三十番札所 願満不動尊、承和三年(836)慈覚大師円仁により開山され、文明二年(1470)幸誉上人の中興で「不動院」として華ひらいた。しかし、先に言って華そうな由緒とはこの後の事である。
天正十八年(1590)江戸崎城主・土岐治英が佐竹義宣と戦って滅び、中興後しばらく荒廃を続けていた不動院も大きく変わったこととなる。すなわち、新しく江戸崎城主となった芦名盛重が、翌天正十九年(1591)天海僧正を迎えて不動院を再興したのだ。
南光坊・智楽院・天海。その名は徳川家康の知恵袋として「黒衣の宰相」とまで呼ばれたことで、あまりにも有名である。家康の没後も秀忠・家光を補佐して幕政全般にわたって権勢を振っている。慶長7年(1602)家康は佐竹・芦名両家を移封し、
江戸崎を幕府直轄地とし不動院に朱印地百五十石を与えた。天海が不動院にあること前後17年、徳川家はこれを手厚く保護し、関東八ケ壇林筆頭、最高寺領八百石、十万石の格式をうけ、寺は隆盛をきわめた。
現在、不動尊院では「六算除け」のお札が入手でき、民間信仰として人気も博しているが、この「六算繰出表」も実は天海僧正の作となるもの。明治9年(1876年)仁王門と不動堂を残し、本堂以下を焼失。以後百年は仮堂に本尊を安置する不遇の時が続いた。しかし、類焼を免れた仁王門には、往時を彷徨わせると仁王像が安置されている。松材の木心乾漆彩色像で、玉眼嵌入の丈六仏、関東最大の巨像である。本尊も信長焼打ちまでは比叡山 無動寺にあった、慈覚大師、円仁作の不動明王及び両童子像というから、その霊験はあらたかといえる
天正十八年(1590)江戸崎城主・土岐治英が佐竹義宣と戦って滅び、中興後しばらく荒廃を続けていた不動院も大きく変わったこととなる。すなわち、新しく江戸崎城主となった芦名盛重が、翌天正十九年(1591)天海僧正を迎えて不動院を再興したのだ。
南光坊・智楽院・天海。その名は徳川家康の知恵袋として「黒衣の宰相」とまで呼ばれたことで、あまりにも有名である。家康の没後も秀忠・家光を補佐して幕政全般にわたって権勢を振っている。慶長7年(1602)家康は佐竹・芦名両家を移封し、
江戸崎を幕府直轄地とし不動院に朱印地百五十石を与えた。天海が不動院にあること前後17年、徳川家はこれを手厚く保護し、関東八ケ壇林筆頭、最高寺領八百石、十万石の格式をうけ、寺は隆盛をきわめた。
現在、不動尊院では「六算除け」のお札が入手でき、民間信仰として人気も博しているが、この「六算繰出表」も実は天海僧正の作となるもの。明治9年(1876年)仁王門と不動堂を残し、本堂以下を焼失。以後百年は仮堂に本尊を安置する不遇の時が続いた。しかし、類焼を免れた仁王門には、往時を彷徨わせると仁王像が安置されている。松材の木心乾漆彩色像で、玉眼嵌入の丈六仏、関東最大の巨像である。本尊も信長焼打ちまでは比叡山 無動寺にあった、慈覚大師、円仁作の不動明王及び両童子像というから、その霊験はあらたかといえる
すてき
投稿者のプロフィール

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宮城県 石巻市に在住、元々出張で日本各地を訪れる機会が在り思い出作りに道の駅スタンプラリーにも参加、気がつけば全国制覇者2022年第184号、今は休日 旅行で全国各地の食べ物、景色、温泉を探索、...もっと読む
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