すのさきじんじゃ
洲崎神社の編集履歴
郵便番号
294-0316
ご由緒
神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部一族を率いて房総半島を開拓され、忌部の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったのが当社とされています。平安時代の『延喜式神名帳』に式内大社后神天比理乃咩命神社とあり、元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称されていました。
鎌倉時代の治承四年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総の地に逃れてきた源頼朝公は、先ず当社に参籠し源氏の再興を祈願し、寿永元年(1182)には奉幣帛使を派遣し妻政子の安産を祈願して、広大な神田を寄進。以降関東武家の崇敬篤く、里見家七代義弘は社領五石を寄進。徳川幕府も朱印状で安堵しています。
室町時代には、江戸城を築いた太田道灌が、鎮守として当社の御分霊を奉斎したのが神田明神の摂社八雲神社の前身と伝えられており、東京湾をはさみ湾よ西海岸に位置する品川、神奈川にも御分霊を奉斎する神社が数社あります。また成田市鎮座熊野神社境内には、明和二年(1765)建立の「六十六社石碑」があり、四方に一宮の社名が彫られ、安房国一宮として当社の社名が彫られていて、広く信仰されていたことがうかがわれます。
江戸時代後期の文化九年(1797)、膀胱の沿岸警備を巡視した奥州白河藩主老中松平定信が当社に参詣し「安房國一宮洲崎大明神」の扁額を奉納されました。
編集前:神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部一族を率いて房総半島を開拓され、忌部の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったのが当社とされています。平安時代の『延喜式神名帳』に式内大社后神天比理乃咩命神社とあり、元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称されていました。
鎌倉時代の治承四年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総の地に逃れてきた源頼朝公は、先ず当社に参籠し源氏の再興を祈願し、寿永元年(1182)には奉幣帛使を派遣し妻政子の安産を祈願して、広大な神田を寄進。以降関東武家の崇敬篤く、里見家七代義弘は社領五石を寄進。徳川幕府も朱印状で安堵しています。
室町時代には、江戸城を築いた太田道灌が、鎮守として当社の御分霊を奉斎したのが神田明神の摂社八雲神社の前身と伝えられており、東京湾をはさみ湾よ西海岸に位置する品川、神奈川にも御分霊を奉斎する神社が数社あります。また成田市鎮座熊野神社境内には、明和二年(1765)建立の「六十六社石碑」があり、四方に一宮の社名が彫られ、安房国一宮として当社の社名が彫られていて、広く信仰されていたことがうかがわれます。
江戸時代後期の文化九年(1797)、膀胱の沿岸警備を巡視した奥州白河藩主老中松平定信が当社に参詣し「安房國一宮洲崎大明神」の扁額を奉納されました。
見所
<h3>安房国は夫婦で一宮!!</h3>
『延喜式』神名帳にて"后神天比理乃咩命神社"という名で載っているのがこの洲崎神社で、安房神社に祀られる天太玉命さまの"后神"を意味しています。
急勾配の長い階段を登りきり振り返ると太平洋が遠くまだ見渡すことができ、房総半島の先にあるので富士山も見えるという、一粒で二度美味しい絶景スポットです。
編集前:<h3>安房国は夫婦で一宮!!</h3>
『延喜式』神名帳にて"后神天比理乃咩命神社"という名で載っているのがこの洲崎神社で、安房神社に祀られる天太玉命さまの"后神"を意味しています。
急勾配の長い階段を登りきり振り返ると太平洋が遠くまだ見渡すことができ、房総半島の先にあるので富士山も見えるという、一粒で二度美味しい絶景スポットです。
行事
1月1日 歳旦祭
1月7日 海上安全・大漁満足祈願祭、湯立神事
1月8日 神社替え
2月初旬 稲荷神社初午祭
7月海の日 子供祭
8月21日 例祭・お浜出神事
11月15日 地区合同七五三祈祷
12月30日 大祓
毎月旧暦1日 月次祭・新月特別祈願祭
編集前:1月7日/海上安全・大漁満足祈願祭、湯立神事
8月21日/例祭・お浜出神事
文化財
みのこ踊り(千葉県指定無形民俗文化財)
編集前:みのこ踊り(千葉県指定無形民俗文化財)