かんまんじ|曹洞宗
蚶満寺のお参りの記録一覧
秋田県にかほ市象潟町象潟島に境内を構える、皇宮山 蚶満寺、かつての景勝地、象潟古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)には松尾芭蕉がこの地を訪れてます、北國八十八ヶ所霊場、奥の細道みちのく路三十三ヶ所霊場参拝にて2023.10に訪れました、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は皇宮山、寺号、院号は蚶満寺、ご本尊は釈迦牟尼仏、宗派は曹洞宗、北國八十八ヶ所霊場 第四十五番札所、奥の細道 みちのく路三十三ヶ所霊場 第十九番札所、本荘領三十三観音霊場、第十一番札所。札所ご本尊は釈迦牟尼仏、蚶満寺の創建は案内板によると、延暦年間(782~806)慈覚大師と云われています。仁寿3年(853年)に天台座主円仁(慈覚大師)の開創と伝えられる。蚶方(きさかた)の美景と神功皇后の伝説によりこの地を占い、皇后山干満珠寺と号したという。神功皇后の伝説とは、神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着し、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、そのとき皇后は臨月近かったので清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終えたという『蚶満寺縁起』所載の伝承。その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったという。蚶満珠寺の名は、干珠・満珠を皇后が持っていたことに由来するとされる。西行法師、北条時頼、松尾芭蕉などの多くの著名人が訪れたこともある名刹です。特に松尾芭蕉は「この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて・・・」と蚶満寺から見る象潟の風景を絶賛しています。元々は波打ち際にあったと思われる旧参道には松並木が健在して当時を忍ばしてくれます。山門はにかほ市指定文化財、は江戸中期の八脚門で2体の金剛力士像が安置されて、門に施された彫刻も江戸後期の永泉寺山門の源流ともとれる凝った造りになっています。境内は蚶満寺七不思議と称される、「夜泣きの椿」、「木のぼり地蔵」、「猿丸太夫姿見の井戸」、「咲かずのツツジ」などの見所があります。蚶満寺の境内も元々は島であり、舟繋ぎ石などの遺構も残っています。樹齢1000年以上 と伝えられる大タブは象潟と蚶満寺の歴史を是非訪れて見て下さい
秋田県にかほ市象潟町象潟島、皇宮山 蚶満寺、奥の細道 みちのく路三十三ヶ所霊場 第十九番札所、
秋田県にかほ市象潟町象潟島に境内を構える、皇宮山 蚶満寺
申し訳ない。。。としか言いようがないのだが、蚶満寺についての事前知識が私には全くなかったようだ。
松尾芭蕉のおくのほそ道の旅の最北端が秋田県象潟という事は知っていた。
けれども、蚶満寺には結びつかなかった。松島のような景勝地としか思っていなかったのである。
そもそもが、Twitterで知り合った、にかほ市の七高神社の神職の方が、6月いっぱいで「神職不在になります」と言われ、「御朱印、御守りなどもなくなります」との事で、こりゃ行かにゃあならん、と思い立ち、秋田県に住む友人にメールしたのだ。
すると、友人の妹さんが、にかほ市にある蚶満寺に嫁いでいるとな。
そんなわけで、蚶満寺さんの目の前にあるホテルを予約し、おくのほそ道についての本も何冊か読み返した。
中に入ると、出迎えてくれたのは、1匹の黒猫であった。
なんでも、ここは亡くなられた前の住職さんが猫好きで猫を保護しているうちに増えたのだとか。
本堂の中に特別に入れて頂き、説明を受けた。
住職の事を、私の友人、住職夫人は「方丈さん」と呼んでいた。
本当の名前は、熊谷ゆうにんさんだ。
「此寺の方丈に座して簾を撒けば・・・」と、おくのほそ道で松尾芭蕉は、蚶満寺について書いている。
私ども曹洞宗では、住職のことを「方丈(ほうじょう)」と言います。 一丈四方の部屋が住職の居間であることから方丈の間の和尚、略して方丈と呼ぶようになったのです。(曹洞宗のHPより)
うううむ。今やネット社会。曹洞宗の寺の娘に聴くよりも簡単に謎が解けるとは。
だが、曹洞宗寺院に生まれた人間にとっては当たり前の事でも、他の宗派の人にはわからない。今まで、多くの教会、寺院、靖国神社万歳の人らに、専門用語などを聴きすぎて「そんなのもわからないのか!恥ずかしい」で終わっていたもんだから、まあ、当人に聴くよりも図書館で調べたり、ネットで調べる方が互いの為なのだ。
そして、こちらの方丈さまが言われるには、当時はこの地域では曹洞宗同士でイザコザがあり、松尾芭蕉が方丈の座に座ったというのはフィクションであろう、と。
天正15年(1587年)1月(『古寺名刹大辞典』 (1992) では、この年を文禄元年(1592年)としている)、地元の金又左衛門(こん・またざえもん)らの懇請によって、松ヶ崎(秋田県由利本荘市)光禅寺九世栄林示幸が、光禅寺の開山直翁呈機を開祖に勧請して曹洞宗に改めた。
江戸時代になって仁賀保院内(にかほ市)の禅林寺との間に本末争論が起きたが、元禄9年(1696年)に加賀大乗寺(石川県金沢市)の預かり末寺となって解決した。
芭蕉が象潟に訪れたのは1689年であるから、本末論争の真最中であった時期なのだ。
まさに、歴史は面白い!人生は勉強や!
あちらこちらに、鎌倉北条の紋が見つかる。鎌倉好きにとっては微笑したくなる。
わざわざ時間を割いてくださり、無知な無宗教の人間、ただの歴史好き、松尾芭蕉好きの人間の為に本堂内部を案内してくださり、詳しい説明をしてくださった事。本当に感謝したい。
お寺でこんな素敵なパンフレットを頂いた。寺の歴史については、かなり詳しく書かれている。
実は、撮り鉄スポットにもなっているのだ。
この門も素晴らしい。
仁王像が素晴らしかったのだが、写真が失敗してしまった。
なんでも住職夫人によると、ここの仁王像の向きは少し変わっているのだとか。それは、海に近い事もあるそうだ。
ごめんなさい!メモを取らなかったので忘れているううう。
タイサンボクにビワの樹と。今年初めて、やっと美味しいビワを食べました。
美しいタイサンボクの花。
タイサンボクの樹には黒猫が案内してくれたのであった。
きさかたの桜は浪にうづもれて 花の上こぐあまのつり舟 西行法師
芭蕉が憧れていた西行法師を記念した西行桜の樹だ。
出世稲荷堂
こちらは、鎌倉幕府5代執権・北条時頼公のツツジだ。
鎌倉で建長寺を創建された後、時頼公は東北の地を廻ったという。その時に、廃寺同然のこの寺を気に入り、復興させたというのだ。
正嘉元年(1257年)8月、鎌倉幕府5代執権北条時頼(最明寺入道)が象潟を訪れて、「四霊の地」と定め20町歩の寺領を寄進し再興している。
親鸞聖人が座ったとされる石だ。
大きな芭蕉の樹と並ぶ鐘楼堂。チョコンと座る三毛猫が愛おしい。
こちらは本堂内にある応神天皇(15代天皇)の像だ。かなり大きい。
応神天皇については、旧い人物なので本当はどこで生まれたのかなどもわかっていないようだ。
松尾芭蕉の時代には、日本海の入り江に浮かぶ島々が散在し、そこに蚶満寺があった。1804年の地震で地形が変わったのだが。当時の屏風絵。本堂にある。
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