ちょうきゅうじ
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長久寺ではいただけません
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長久寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年01月05日(木)
参拝:2023年1月吉日
15時過ぎてからの参拝なので、自押しの朱印のみ押してきました。
山門、庚申塔、本堂は名古屋空襲から免れた戦前の建物。
徳川家康の4男として生まれた松平忠吉が武蔵国忍城の城主であった頃に
長久寺が祈願所とされ、清須に建立したが名古屋城築城の際に
清須越しにて移転され、名古屋城の鬼門鎮護として東北に建立された。
《忍城といえば、のぼうの城でも知られるお城、石田三成が
攻めあぐねている間に自軍が壊滅状態になると言ったお話しでしたが、
忍城攻略時に現・行田市の長久寺を兵火で焼失させてしまっているので
松平忠吉が清須へ移封と同時に当時の住職の重敒も帰依を受け清須へ
新たに長久寺を開かれ復興された。
行田市の長久寺は成田氏の菩提寺であることから、徳川家と成田家は
繋がりある関係となった。》
しかし、天明期(1780年頃)に火災焼失後の寛政時代(1790年頃)再建。
ところどころ修復もなされているとはいえ、名古屋空襲を乗り越えてきて
いるので、貴重な文化財と指定を受けています。
山門、庚申塔、本堂は名古屋空襲から免れた戦前の建物。
徳川家康の4男として生まれた松平忠吉が武蔵国忍城の城主であった頃に
長久寺が祈願所とされ、清須に建立したが名古屋城築城の際に
清須越しにて移転され、名古屋城の鬼門鎮護として東北に建立された。
《忍城といえば、のぼうの城でも知られるお城、石田三成が
攻めあぐねている間に自軍が壊滅状態になると言ったお話しでしたが、
忍城攻略時に現・行田市の長久寺を兵火で焼失させてしまっているので
松平忠吉が清須へ移封と同時に当時の住職の重敒も帰依を受け清須へ
新たに長久寺を開かれ復興された。
行田市の長久寺は成田氏の菩提寺であることから、徳川家と成田家は
繋がりある関係となった。》
しかし、天明期(1780年頃)に火災焼失後の寛政時代(1790年頃)再建。
ところどころ修復もなされているとはいえ、名古屋空襲を乗り越えてきて
いるので、貴重な文化財と指定を受けています。
すてき
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シンくん3143投稿
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