御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
【スペシャル御朱印検索】無料お試し有り
切り絵・一粒万倍日の御朱印や神さま・仏さま・宗派検索可能に
四天王寺聖徳太子1400年限定御朱印大バナー2025年2月四天王寺聖徳太子1400年限定御朱印大バナー2025年2月
茶園堂ではいただけません
広告

歴史

豪族片岡氏
応永十八年(1411年)片岡直弘が上野国片岡郷より土佐に移り、築城したと云われる。
元亀二年(1571年)城主片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったと云われる。
天正十三年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で、片岡光綱は伊予の金子城主金子備後守元宅の援軍として伊予へ赴き、小早川隆景の軍勢と野々市原で戦って討死した。
また、片岡光綱の子光政は豊臣秀吉の九州征伐で、天正十四年(1586年)十二月豊後国戸次川の戦いで島津家久の軍勢と戦って討死した。

茶園堂と盆踊り
寺野城(黒岩郷)城主13代片岡茂光は、善政を施し城下に茶園堂を設けて、領民をして湯茶の接待をさせ、通行する旅人を慰労した。
そして、茶園堂に領民を集わせ、盛大な盆踊り会を催した。
14代片岡光綱は、片岡・法巌の2城を築き、片岡に移り住み、茶園堂も建てて接待を続けた。
永禄3(1560)年茂光の死後、その妻(長宗我部国親の妹)理春尼は、夫と兄の死を悼み、供養に明け暮れると共に村の幼童を集めて読み書きを教え、夫・茂光が遺愛の盆踊りを育成し、ここ茶園堂の庭、瑞応寺(黒岩郷)、天忠寺(黒岩郷)で毎年盛大な盆踊り会を催した。
片岡氏滅亡後も村人たちは絶やすことなく続けた。
後年、土佐藩執政野中兼山は、毎年供養の灯油3升を永代下賜として助成した。
これが現在も続けられている片岡茶園堂や瑞応寺の盆踊りである。

もっと読む
歴史をもっと見る|
2

茶園堂の基本情報

住所高知県高岡郡越知町片岡1045
行き方
アクセスを詳しく見る
名称茶園堂
参拝時間

24時間

トイレなし
御朱印なし

詳細情報

宗旨・宗派
創建時代戦国時代
開山・開基片岡光綱
ご由緒

豪族片岡氏
応永十八年(1411年)片岡直弘が上野国片岡郷より土佐に移り、築城したと云われる。
元亀二年(1571年)城主片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったと云われる。
天正十三年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で、片岡光綱は伊予の金子城主金子備後守元宅の援軍として伊予へ赴き、小早川隆景の軍勢と野々市原で戦って討死した。
また、片岡光綱の子光政は豊臣秀吉の九州征伐で、天正十四年(1586年)十二月豊後国戸次川の戦いで島津家久の軍勢と戦って討死した。

茶園堂と盆踊り
寺野城(黒岩郷)城主13代片岡茂光は、善政を施し城下に茶園堂を設けて、領民をして湯茶の接待をさせ、通行する旅人を慰労した。
そして、茶園堂に領民を集わせ、盛大な盆踊り会を催した。
14代片岡光綱は、片岡・法巌の2城を築き、片岡に移り住み、茶園堂も建てて接待を続けた。
永禄3(1560)年茂光の死後、その妻(長宗我部国親の妹)理春尼は、夫と兄の死を悼み、供養に明け暮れると共に村の幼童を集めて読み書きを教え、夫・茂光が遺愛の盆踊りを育成し、ここ茶園堂の庭、瑞応寺(黒岩郷)、天忠寺(黒岩郷)で毎年盛大な盆踊り会を催した。
片岡氏滅亡後も村人たちは絶やすことなく続けた。
後年、土佐藩執政野中兼山は、毎年供養の灯油3升を永代下賜として助成した。
これが現在も続けられている片岡茶園堂や瑞応寺の盆踊りである。

体験武将・サムライ
「みんなでつくる御朱印・神社お寺の検索サイト」という性質上、掲載されている情報の正確性は保証されませんので、必ず事前にご確認の上ご利用ください。
神社寺院のホームページが無料でかんたんに作れる!

この寺院の僧侶様へ

公式アカウント(無料)にご登録いただくと、

ご自身の寺院の情報を編集することができます。

無料登録して、参拝者が必要な情報を直接伝えてみませんか?

詳しくはこちら

ホトカミのデータについて

ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。

ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。

最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう

利用開始をもって利用規約プライバシーポリシー
同意したものとみなします。

※購読はいつでも解除できます。

This site is protected by reCAPTCHA and the Google
Privacy Policy andTerms of Service apply.

御朱印背景
行きたい
投稿する
お問い合わせ

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから

お問い合わせ